いつしか増えていくシワのように

小じわが気になる歳になった。目尻とほうれい線。

ここ1年、写真を撮ろうとするたび、iPhoneオリジナルのカメラか、snowかで迷うようになったのは私だけだろうか。

 

ネットで美容外科での若返りを調べては、

ウルセラ(全体的に引き締めるレーザー。めちゃめちゃ効果あるらしい)めっちゃ良さそうやんとか、水光注射(白玉注射ともいう。とにかく肌に透明感を出せるらしい)どうなんとか、金に物言わせて重力に抗おうとする。

 

物言わせる金がなければ、ひたすら舌回し運動だ。

右左とほっぺたが膨らむ自分の顔を見ながら思う。

綺麗であるために歳に抗おうとすることに、限界はいつ来るのだろう。

 

次の誕生日に29歳になる。

20の時も、25の時も、27の時も、思っていた。

自分の人生は、こんなものなんだろうか。理想と違うぞ、と。

 

その度に「まだ若いから。これから人生にいろんなことが起こるだろうし」と、年齢のせいにして、自分に原因があるということを見ないようにしていた。だけど、この歳になると、見えてきてしまう。

 

もっと若くて活躍している人、社会で輝いている人はたくさんいる。人が何かを成し遂げたりできるのは、年齢を重ねたからじゃない。その人がその人たるために、行動を積み重ねているからだ。

 

休む直前までしていた仕事をしながら私は、

「わたしはここで何をやってるんだろう」

と考えていた。それはもう30分に1回のペースで。

自分の人生にさえ欲求に真っ直ぐに生きられていない私が、支援なんて人の手伝いをしている場合だろうか。と。

 

もう2年以上、わたしの体がいい加減にしろよとサインを長い間出し続けてくれていた。

 

無視し続けてきた張り詰めた糸が切れてそれまでの日常から離れるのは意外なほど呆気なかった。

 

それが5ヶ月前のこと。

 

そこから、わたしは水を得た魚のように毎日好きなだけ寝て、会いたい人にだけ会って、絵を描き始めたり、ブログを始めたり、カラーセラピーの講座や(生年月日から生まれ持った気質やラッキーカラー、歳や月ごとのその人のテーマカラーやそれの意味するところなど)書店主催のライティングゼミに通い始めたりして、純粋な興味とか出来るようになりたい気持ちとかを大切にして生きるようになった。

 

よく考えたら、昔から好奇心は旺盛で、世界一周したりタイマッサージ留学やアロマセラピー、キャンドル作りや石鹸作り、その時々の興味に合わせて好きなことをしてきた。故に素人に毛の生えた程度には知ってることも多くなったし、中にはずっと続いているものもある。

 

なのに、この間カラーセラピーの講座を受けている最中にふと浮かんだ考えは、「あれ、わたし知識ばかり食べているけど、結局誰かのために役立てられたことってあったっけ?」という想い。

 

いいんだ別に、趣味ならば。でも、新たな知識を習得するたびにわたしの中にいつもあったのは、「これで他の人と繋がれたり、それが価値としてお金に変わったら楽しいのになぁ」という想い。

だけど、だいたいのことはその場限りで終わって、「○○をしたことがある」という、自分の中の経験だけが積み重なっていく。

 

一度浮かんだら消せない、「どうして私はインプットばかりして、アウトプットをださないのだろう」という疑問。石は石とぶつかり合うことによって磨かれることは理解しているつもりだ。

だけど、人に自分のやっていることを表明しようとすると、

誰も知りたくねーよ。近況なんて。

誰も見たくねーよ。お前の写真なんて。

そのクオリティなんて素人もいいところ。

なんて。なんて。なんて。

その人特有の考え方の癖は、もはや反射と言えるほどに考える間も無く出てくるものだ。

私の場合は、ネガティブな妄想をそのまま事実かのように挿げ替える思考の癖。

 

仕事をしていた時と同じだ。

こうしたいという自分の思いに、自分でストップをかける。思えば、この感情を抑制する癖は、物心ついた時からあって、不安な気持ち、悲しい気持ちをひとりで押さえ込んで生きてきたように思う。

 

だけれども、そういう自分を嫌うことはもう辞めることにした。抑圧的な自分も、自分を守るために1番悪者になって戦ってくれてきていたということがわかったから。

 

余命半年だと思うと、もう、そろそろ素直な欲求に従っていきていってもいいかなと思う。

 

もう戦わなくて良いよ。

そう自分にいってあげたら楽になるような気がして、最近は、何度も自分に大丈夫、大丈夫、大丈夫だよ、と声をかけている。

 

老化は、死に向かっていくこと。

だけど、死を意識して生きている間は、

精神的に老いることはないんじゃないか。な。

 

いつしか増えていくシワのように、抗って、抗って、最後に受け入れる時。

 

それは醜いものじゃなくて、自分の生きてきた歴史なんだと思えるようになっていると良い。