雑記 冬の終わり

前回の記事で、

 

何があったか、誰かどうしたか、そんなことに興味はない。私が知りたいのは、あなたがそれをどう感じたかということだ。

 

なぞ書いた後、本当にそうか?と心配になった。

 

というのは、そんな心のディープな部分や触れ合いは、それぞれがどう感じたか、を語ることのみでしか実現しないものではないのでは、と思ったからだ。

 

例えば、同じアーティストが好きだ。趣味や興味関心が同じだ。ということ。

中学生時代にジャニーズにはまっていた頃、ある種の熱病に冒されていたと思うのだけど、同じジャニオタというだけで急速にジャニオタ同士の距離は縮んだ。そこには同じものを愛している=あなたとわたしはジャニーズを介して繋がっているという安心感があったからだ。人間関係はまず距離を縮めるところからだ。その後関係が深まるかどうかは、いよいよ相性による。

 

今だって、soarやNEUTといった既存の価値観に縛られない世界観を持つニュートラルな視点のメディアを好む人とは、そうじゃない人と比べて仲良くなれると思うし、コルクラボでいう平野啓一郎さんや山田ズーニーさんがある種のコミュニティの中において集中的に読まれたりするのは、やはり似た価値観を持つ人は似たものに惹かれるし、同じ価値観を共有できる仲間を求めて集まっていることが多い。

 

共感しあいたい、というのは根本的な欲求なんだと思う。

 

ここまで書いていて、では、似た価値観や世界観を持つ繋がりたいひとたちと繋がるためにはどうしたらいいんだろうと考えると、やはりアウトプットしかないのだと思う。

 

その場所に行く、というのもあるのだろうけど、その場その場のコミュニケーションを苦手とする私にとっては、自分がどんな人間で、何を考えているのか、何をしたいのか、ということを、何かを通して表現していくほかないのだろうという結論に至った。

 

こんなことを考えたのは理解し合いたいという欲求を自覚したからでもあり、その手段として何をやろうか考えることが仕事を通じてあったからだ。

 

コマーシャルの撮影現場で出会った人々を見ていて、映像を作る仕事をしているひとは、言語が抽象的である場合が多く、言葉遣いの雑さという意味も含めて、粒度が荒いコミュニケーションが飛び交っているという感想を持った。

つまり、そうじゃなくて!という相手の理解度やそのアウトプットに対する苛立ちを表す言葉がよく聞かれた。

 

 

作りたい世界観を表現するには作り手の共通認識が必要で、それを本気でやろうと思ったら、それはめちゃくちゃに時間も手間もストレスもかかることだ。

 

だけど、求められるのは完成度だけではなく、限られたコストの中で出せる最大の効果だ。

そしてそれらを汲み取り、正確に表現できる役者が、またはコマーシャルの最大の目的である購買意欲が掻き立てられる、ファンが多い役者が求められるのだということ。

 

少なくとも直接的、名目的には純粋な作品である映画やドラマ、演劇などに対して、コマーシャルは広告であり、購買が目的だ。たった一度の現場なので違うことも多いのだろうが、ひとまず撮影現場の雰囲気の違いはその目的にあるのだと感じた。

 

 

話は変わって、役者としての成長についても考えていた。

今回は役者、って呼ばれるから、こそばいけどそのまま表現するとして。

コマーシャル作りに参加する中で、現場で、本を読もう、読解力がつくから、という会話がなされていることを聞いて、あぁそもそも読書が習慣でないのがスタンダードなのかもしれないと思うと同時に、読解力と、表現力、どちらもかけては成り立たないのだと感じた。

 

見た目でファンがつくような容姿の人は、基本的に陽キャラが多い。何がそんなに面白いのかと思うほど、よく笑っている。内容を聞いても何が面白いのか全然わからないが、楽しそうでいつも羨ましく思う。手に入らない憧れ感がある。きらきらしている。

 

一方で、表面上はきらきらしているものの、深く物事を考えたり、相手の言わんとしていることを深く読み取ろうとする習慣がついていない人もこの数ヶ月で多く見てきた。

 

何も見えてないながらに少し垣間見えた部分について書いてみたけれど、要はバランスなのだと思う。

スター性と知性のバランス。もしくはそれを凌駕する本能的な勘やエネルギー。

 

会社員をやっているときはなかった、個人事業主や自営業者に囲まれて感じる、個人としてどう生きていくか、という問いが常に頭にある。

 

今あるものに感謝して生きていくのも良いのかもしれない。私は物事に執着できずにいつも生きていたし、今も9割のことについてはダメと言われたらすぐに諦める。適応性が高い資質ゆえ、逆境で状況をひっくり返してやろうという気持ちにはならない。大事なのは、この環境でどう生きるかってこと。

 

その中で出来るベストな社会へ問いを投げかけていく行為とは何かということ。序列の中で勝つことじゃない。序列でしか物事や自分を見れなくなったことで苦しんでいる人がいたとしたら、その人に誰かになろうとして自分を蔑ろにしてしまっていないか振り返れる問いを投げかけること。

 

書いた後に、結局自分のエゴだなと思う。自分が言いたいから言ってるだけであって、ここでもやっぱり理解してほしいんだなと、業の深さにびっくりすると同時に、裸ん坊のまま飛び込んでいくよりも、どうしたら戦えるかを工夫した方が知性のある戦い方なのではないか、と尊敬する人が言っていたこと思い出した。

 

石井ゆかり先生曰く、全ての星座の人にとって3月はすごい星回りだ、と。

劇的に新しいことが起こるというよりも、過去からグラデーションとなって揺るがしにかかってくるような、そんな流れがきているみたい、うまく説明できないけど。でもなんかしら大きな変化が起こる予感がしている。

 

サンガツ。春の予感がそこまで来てる。