行動できない時に考え直してみるべきこと
行動には目的がある。
やればわかる、とりあえずやらんと始まらんと世間では言われ、ド正論ながらに、やる前に考えすぎちゃう私なりに、やるべきとわかっていることでも、なぜすぐに動けないのかということを考えてみた。
それは、望む行動を出来ない原因ではなく、望む行動をしない目的に着目するということ。
全ては、望んでその結果を引き寄せている、ということについて。引き寄せの法則とか、心理学とか、詳しいことはわからんから、実体験に基づいた話をしてみます。
以下は、自分の行動がどんな目的に基づいてるのかわからなかった時に書き溜めた内容。
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昨年末ひょんなことからモデルの事務所に所属をしてから、ずっと動けずにいることがある。
最近は、インスタグラムのフォロワーが多い方が仕事が入りやすいから、インスタグラムはいろいろ研究した方がいいよ!というアドバイスのことだ。
言うまでもなく個人のアウトプットが認知度に繋がる時代で、大手の事務所に所属していないタレントや、既に有名な人、専門分野で活躍している人を除いて、無名→ネットでのアウトプットで何かしらの注目を浴びてアップ→メディアに出演という構図がいわゆる現代における「社会的な立場を確立する」王道コースになっていると思う。
個人のブランド力の時代なのだ。
正直、普通であることを否定するような響きに感じ、この個人のブランド力という言葉を使うのには抵抗がある。
同時に、自らのやっていることや顔を堂々と世界に発信する価値観について、特にインスタグラムの世界観には軽薄さすら覚えつつ、それを享受している自分にも矛盾を感じる。
もちろん、自分のやってることがブランドだなんて思わず粛々と生きてる人が取り上げられるケースもあるし、スポットは当てられなくともただ粛々と自分の人生を生き、死んでいく人もいる。そういう人たちを、美しいと思う。
これは、自己PRすることへの抵抗なのか、わからない。そうだとしたら、そこにどんな心理があるのか、わかるようなわからないようなそんな気持ちである。
ぶっちゃけ、したいかわかんないけど、した方がいいと言われて、自分の感情とやるべきと言われていることのギャップを埋められない。
そのギャップがなんなのか、ということを書きながら自分なりに納得がいくまで考えてみたい。
前提として、知名度っていうのは、武器になる。
多くの人から注目を浴びている人材は宣伝になるから、歩く広告塔のようなものだ。
当然お金になる。だから多くの人が欲しがる。
SNSの使い方でわかれるのは、情報を発信しそこから物事を生み出す人と、基本的には享受することがメインである人の構図だと思う。
その中で、アウトプットする人にフォーカスして考えてみたい。
アウトプットする人には2種類いて、ただその注目を集めるという行為に没頭するという意味で有名になりたいからそれを追いかける人もいるし、個人に限っての話であれば戦術として知名度を上げるためにSNSを活用している人もいる。
無意識な没頭と自覚的な活用の違いだ。
無意識な没頭はそれだけ情熱をおびるし、そこには無理な努力がいらない。好きでやっているのだから。わたしもこのブログは、ただの日記ではありつつも書かずにはいられないから書いているだけでそこに努力はない。それが評価されるかどうかは別だけれど、ただの趣味だ。
ただ好きなものを投稿してたら、それが仕事に繋がっちゃった人たちがいわゆる趣味を仕事に系の人なのかも。
一方で、自覚的な活用をしている人は、何か別に目的があってアウトプットを手段として使用している人たちだ。
仕事や集客に繋げたい、同じ趣味の人と繋がりたい。本業の宣伝チャネルを拡大したい。届けたい情報がある。等々。
自覚的な活用から、無意識の没頭に繋がる人もいれば、無意識に没頭してたら活用できることに気付くみたいなパターンもあると思う。
わたしがインスタグラムを活用した方が良い、と言われて自分の中に違和感を持ったのは、前者の無意識の没頭は出来ないことを意味している。
それが出来てたらもうやってるはずだから。
合理的に考えたらどう考えても自覚的に活用するのが正解なんだろうなと思いつつ、
では、なぜ正解とわかっているものが選べないのだろう。と疑問に思う。
自己否定が得意な私は、やるべきなのにやらない自分を責めがちな思考パターンを持っているけれど、それだと苦しいし、何も解決しないので、冷静に何が問題になっているのかを考えてみる。
正直、知名度が上がって得られるメリットはでかいと思う。自分の承認欲求も満たされる。
一方で、自分が発信する情報に価値があるとも思えないという気持ちもある。
その矛盾した気持ちのアンバランスさがそこにはある気がする。
認められたい、という気持ちはそれなりにある、と思う。ていうか、ある。普通に、かなり、ある。
欲望があれば、それを叶えるために正直になれば良い話なのだが、私の場合は、それが大きめの自意識に邪魔されてる気がする。
要するに、知名度アップのために努力する自分が恥ずかしいってことなのかもしれない。
これ、かなり拗らせてる気がしてきた。
正直、ツイキャスとか見てると、超普通のギャルが多くの視聴者を獲得していたりする。
共演したモデルさんのインスタグラムのフォロワー数が万単位だったりして驚いた出来事が最近あった。美人の部類には間違いなく入るけど、そんなに目を見張るほどではないよねと思ってしまう普通さなのだ。リアルで見ると、粗が見えるのもそうだし、わかりやすい整形していたり、ダサい私服を着ていたりする。普通だ。
ただ、ちゃんとファンがいるのにはそれなりの理由があって、定期的に発信していたりとか、自分の武器がわかっていたりとか、そういうのももちろんある。
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等々等々、長々とこねくり回してる。
やりゃいーじゃん!
なのに、なんでやれないのか。
私なりに書いてて感じたことは、
もともと自己評価が高くないこともあるので、自分を客観的に見辛いというのもあるけど、
本当は有名になりたいと思いながらも具体的なアクションをしないことによって、「ポテンシャルはあるけど、努力してないから出来ないだけの私」を守ろうとしてるんじゃないんだろうか。ということ。
いわゆる、傷つきたくないからやらない。
ここまで自分が書いたものを見返しながら、
自分の行動を正当化するために、こうも理屈をこね回せるのかと思ったらゾッとした。笑
つまり、行動しないで批判していることの目的は、自分が本当は何者でもないってことを正面から受け止めたくないから、ということになる。
つまり、普通なんだとかディスってるモデルさんや一般人の配信者に対しての感想は、ただの嫉妬ということ。震える。嫉妬をなんか考えてる風にこねくり回しただけだった。
自分の嫉妬を、
うらやましい
わたしもああなりたい
と思ってることを認めず、批判的になることで
同時にどうせ無理だ、という卑屈ちゃんがいることをなかったことにしていただけでした。
卑屈な自分は、どうあがいてもいるし、いていいんだけど、その卑屈ちゃんが傷つかないために守りに入るんじゃなくて、その卑屈も味わいながら、自分の素直な気持ちはなんなのか?と考えなきゃいけないな、と思いました。
卑屈仲間がいたら、ぜひ卑屈になることによって自分は何を守ろうとしているのか目を向けてみるといいかもよ。