心が雨の日に 考えたこと
二階堂和美さんの、「おんなはつらいよ」を聴きながらこれから、これから数時間は眠れないだろう深夜の過ごし方を考える。
久しぶりに、ベッドが人型に沈むのではないかと思うくらいに起き上がれない1日だった。
どうしても起き上がる気にならない体を観察しながら重たい頭で考えていた。
こんなに起き上がれないのは休職直後以来。
回復したと思っていたのに。まだこんな日が来るの。。という失望。
こんなに怠け者の自分じゃ、きっと彼もいつかは愛想を尽かすだろう。という謎の見捨てられ妄想。
届いたまま開けていない荷物、サボっている筋トレ、いろんなものが自分を責めているように感じる。全てが億劫だ。
原因がわかる気分の落ち込みは良い。対処方法を考えることができるし、打ち手がないなら、仕方ないと受け入れることができるから。
わたしは、答えが見つからない不安よりは、マシだと思ってしまう。答えのわからない気分の落ち込みは最悪だ。見通しが立たないし、何よりわからない、ということを受け入れ難い。
仕事ではメンタルヘルスに大いに関わる分野だったので、よくお客様にいっていた。
「人間にはバイオリズムがある。不調の原因は直接的なものではなく、ただそういう時期なんだと思えば楽になることもあります」と。
ケッ。こいつ全然わかってねぇ。バイオリズムという理由だけで不調を受け入れろだと?先の見えない不安がお前にわかってたまるかよ。(お客様は良い人ばかりなので誰1人そうは言わなかったけど)
抗わずに生きること。良い状態に執着せずに生きること。起こったことを受け入れることがこんなにも難しいことだなんて、知らなかった。
元々入っていた友人との約束をドタキャンし、
彼への連絡もする気になれない。
理解がある本音が言える友人だったから、ある意味「今日は調子が悪いから行きたくない」を言えるチャンスをもらったことに感謝している。
相変わらず自己嫌悪には陥ったけど、人との予定よりも自分の気持ちを優先すべき時はある。それが出来たことは、私には成長なのだと思う。
今まで彼氏がいた時期だって、こういう不調に陥ることはあった。だけど、そんな状態になった自分を見せたら、失望されるんじゃないか。そういう不安から、不調時の対処法は、ただ黙って自分の穴にこもることだけだった。だからいつまでも理解してもらっている感覚を得ることが出来ずに、孤独感だけを深めていくことになって、寂しさだけが行き場を失って。入りきらなくなりそうな寂しさの壺に上から力を込めて蓋をする。
もう、そんなことしたくない。この人には理解してほしい。じゃないと、一緒にいる意味がない。
そう思って、返信しないまま数時間経ったLINEに、
「ちょーしわるい」「ドタキャンした」「ベッドに沈みそう」「一緒に住んだら、こういう自分を見られて、呆れて、嫌いになっちゃうんじゃないかって不安だ」と、送ったら、1分も経たずに、
「そういう素直なとこ好きだよ」「全部好きだよ」「その不安は、幻想だよ」と返信が返ってきた。
それだけでは気が済まず、「わたしの好きなところを10個送って」といい、さほど時間をおかずに返事をくれたそれを見て、その日はじめて笑うことが出来た。
事実になるかどうかなんてどうでもよくて、今それが事実だと思うと、わたしの心はとても とても軽くなった。素直になれた。受け入れてもらえた。
どんなわたしでも好きでいてくれる人がいる。
昇華できた痛みを晒すことは、人に勇気を与える。だけど、今、どうしようもない真っ最中の痛みや弱さは、受け止めてくれる人がいないとどうにも出来ない。だから、ただ、助けを求めることは怖いのだ。受け止めてもらえなかったら、傷つくから。
弱者になるのは、自尊心が傷つく。弱さを受け入れていなければ、助けは求められない。そして、よく理解していたつもりだ。人の役に立つ経験こそ、信頼して助けを求めてもらうことがその人に自信や生きがいをもたらすことを。
わたしは弱い。それで良い。それが人とのつながりをもたらすから。
原因不明の落ち込みに襲われたら、助けてもらえば良いんだ、と生きてて初めて思った。ひとりで飲み込むよりも、健康的な対処法に思う。
結局、ここまで消化しきってから、原因と思しき感情に出会った。
昨日は、一回り以上年齢が上でとても美しく聡明な女性と会った。話を詳しく聞けば聞くほどまっすぐで、卑屈さがない。人以上に努力と経験を重ねてはいるが、あくまで全て自分のためであり、人の評価軸で生きていない。世間の美しさの価値観に囚われず、自らの哲学を持つ美しい人だった。
芸能の仕事もしているので、わたしは彼女にその話を聞きに行ったのだけど、その流れで共にとった写真の自分の自己イメージとかけ離れていたことにショックを受けていたのだ。二重アゴ。目鼻立ちがぼんやりしている。首が太く、姿勢が悪い。
彼女の経歴が、淀みのない話し方が、影のない放つ光が、わたしにはまぶしすぎた。
それで、一気に自信を無くしてしまった。
人前に立つ仕事をするということは、美しい人に囲まれて、少なくとも自分なりの自分の美しさに自信を持っていなければいけないと思っている。
その理想の自分と現状がかけ離れすぎていたのだ。
もっと綺麗にならなくては。
綺麗になりたい、ではない。ならなくては。と思ったのだ。
これは多分私が幼い頃から中身を褒めてもらうより見た目を褒められる経験を多めにしたことも要因で、それがじょじょに失われていくことによる喪失感=自己価値の減少と認識をしていたのだと気付く。
「まだそんな君が私の中にいたのね。。」と驚きながらも、その存在を認めるしか今の私には出来ないし、それで今日はどんよりしていたのね。。と合点がいった。
わたしをたらしめるものは、この暗さであり、卑屈さであり、生きづらさであり、たくさんの人に共感できるということだった。そう思ったら、見た目はこれから刺激を受けることで磨いていけば良いか。どうせ本職にできるほどのレベルではないし、と自然に思ったのだった。
自然のように生きていたい。
雨が降っても、晴れでも、そのまま、そこに、あるがままに在る。
だけど自然と違うことは、人間が自然よりも速いスピードで変化が可能だということ。わたしは、大切な誰かやわたしのために美しくなる努力をしたい、と思う。