自己表現としての「書く」ことについて

あなたはここにいるのに、ここにいない。

体はあるのに、声も聞けるのに、確かに、あなた自身はそこにいない感覚というものがある。

 

例えば、二人で食事をしている。メッセージでやりとりをしている。第三者を含んでテーブルを囲んでいる。そんな時、人は自分自身について話すことや、相手について質問をしたりというコミュニケーションが発生する。

当たり前のようなことだが、コミュニケーションとはこちらが投げた球を相手が受け取り、それに対して感じた球を投げ返し、また相手から球が帰ってくる……といったキャッチボールだ。何気なく投げる球か、握りしめていた球を勇気を持ってぶん投げるのかは、私と相手の関係性や、状況によって異なる。

 

そういったコミュニケーションの場面の中で、

話題には事欠かないのだが、それに対するその人の感情や意見は聞けないので、話は平行線を辿り、次の話題から次の話題へと移り、永遠に深まることはない、と言った現象に出会う。その人が話しているようで、話していることは誰かが言ったことや、取り繕うように出てきた、意味を持たない言葉の羅列だったりするので、私は「あなたはここにいるのに、生身のあなたは、ここにいない」と感じるのだ。

 

そんな時、私はとても悲しくなる。なぜなら、私はここにいるのに、あなたはそこにいないから、まるで一人で話し続けているような寂しい気持ちになるのだ。

 

人に見せる見せないは別として、自分の感じたことを書いてみよう、と思い立ったのは、言葉を紡げる人への憧れと、一方で津波のように押し寄せる自分の想いや感覚に翻弄されることが度々あり、その処理にどうしようもなく困ったことがきっかけだった。

 

はじめは、ただ感じたことの羅列だった。吐き出して一時的にすっきりはしても、新しい発見はない。その日あったコミュニケーションを思い出すし、その場で表現できなかった想いを書き連ねていく内に、自分自身がどのように感じていたのか、感情の語彙力が必要なことに気付いた。

 

イラついた。焦燥感を感じた。不安だった。寂しかった。もどかしかった。情けなかった。罪悪感を感じた。

そうして感情のレパートリーを増やすと、自分の中に問いが生まれていく。

「なぜあの時怒りを感じたのか。何が私をあんなにも動揺させたのか。」

そうして自身の想いを紐解く内に、激しい感情に襲われた時にもそれに翻弄されることなく、自分の中でまず考えてみること、どうしてそう感じたのかと問うてみることを覚えていった。

 

そうしている内に、自分が考えたことを外に出してみたいと思うようになった。

他人から見た私という人間に対する情報は少なく、誰かにこの想いを理解してほしいと思っても、口でうまく説明ができなければそれは伝わらない。

書くことで私という人間の想いが文章に乗って誰かに届き理解を得られた時、私は初めて、自分自身が表現することによって人と繋がり、理解されたことを通して、自分を理解するようになった。

 

仕事がうまくいかない、未来が見えない、身近な人との関係がうまく行かない。何よりどうしてこんなにも苦しいのか、そんな想いに向き合おうと決める時、とてつもないエネルギーを使い、残酷な現実と向き合う。

 

苦しい日々の中で更にそんな苦しいことをするよりも、その現実を見ないようにする手段は世の中に溢れている。動画、SNS、漫画、小説。コンテンツは時に人を救い、勇気を与える一方で、現実から逃避するための手段として消費される。それ自体に良い、悪いはないように思う。

 

ただ、そうして現実の問題から目を背けながらも、私たちは現実を生きなければならない。使いすぎた月のカードの請求金額を見るのが怖いように、気まずい相手との衝突を避け続けるように、怖いことを先延ばしにして、自分の想いに蓋をして、不安と共に今を生きる。

 

大多数の人が、表現することを教えられて育ってきていないように思う。

幼少期から表現することに肯定的な環境にいて、大人になって無意識にそれをしている人、幼少期から言葉以外の表現手段を持てた人は、表現に慣れている。

しかし、幼少期に感情に蓋をせざるを得ない環境にいた人は、自身の想いを表現することをどうやって良いのかがわからないのだ。

何かを表現することは、センスがなければいけないだとか、人に見せれるものでなければいけないと思い込んでいる人もいる。そうではない。表現は人のためではない。自分のためにするのだ。自分との人間関係が築けていない時に、他者との人間関係が築けるのだろうか。

 

自分の想いを表現することを避け続けると、その周りには同じように避け続ける人が集まる。その方が互いに楽だからだ。けれど、そこには誰もいない。

 私はあなたにここにいてほしい、と思う。

 

あなたの想いを聞かせてほしい。どんなに下手くそでも良いから、私とあなたがここにいることを実感したい、と強く願う。