Nのために

湊かなえ原作のドラマを見た。

湊かなえの小説は家族揃って好きだけど

Nのためには ドラマではじめてその物語を知った。

 

わたしは神奈川県で生まれて、中学生くらいの時は田舎独特の多少の抑圧は感じたことがあったけれども、いわゆる主人公の女の子のような どうしようもない悲しい現実を前に逃げられない境遇、環境(お金とか、田舎の島であることとか、理想とはかけ離れた家族とか)にぶちあたり、歯を食いしばって生きてきたことは無いと思う。

 

主人公のの女の子のセリフとして、下は見ない、上を向く。という言葉が何回が出てくるのだけど、

さて、小説とはいえども 彼女のような境遇におかれた人は現代社会にいて もしかしたら 近くに 普通の大人として あるいはきらきらした人生を送っているように見えるその人なのかもしれない。

 

なにが言いたいかというと 経験は その人だけのものであって 経験から生まれた考え方を侵すことは出来ないということ。

自分の思う正しさを押し付けることは その人の過去に土足で入っていくことにもなりかねないんだな と感じた。

それがたとえ違和感を覚えるものであっても。

相容れない人同士は おそらく理解しあえる経験が重ならない人たちなのかもしれない。

今の会社は多様性という言葉が共通言語として使われていて

その言葉に対してわたしは ジェンダーや国籍や人種、障害のあるなし、特性の違い 等と理解していたけど本当は島国である日本の中だって、それぞれ侵せない経験があって成り立つ 全ての人を尊重することが多様性の一つとも言えるような気がする。

相容れなさを受け入れること。

正しさは時に 何にもならないということ。

そこからはじめるということは、相手を尊重するとともに、誰にも侵せない自分自身をつくりあげるものを尊重するということなんじゃないか。

全ての人とわかりあうことは無理だ。でも、縁あって周りにいる人をいかに尊ぶかというところからはじめたい。

 

苦しみはいつの時代にもついてまわる。

100年前は飢餓、現代は情報操作から生まれた序列による苦しみ、未来はなんだろうか。いつになったら愛で包まれるのか。そういう節目に生きていると思う。

 

今は幸せでもいた自分に降りかかるかわからない。

どんなに幸せそうに見えても 傷ついていないとは限らない。

本当に生きてる間は修行だなと思う。

輪廻転生の運命に生まれた限り、自分のこと以上に大切に思う人を見つけて大切に愛を育むことは、

意味がないようでいて、だからこそすごく尊いことなんじゃないかと思える。

 

 

とても良くできた物語だった。

今のタイミングで出会ったことの意味を考えながら、今度は原作を読むのだ。究極の愛とは何かを、わたしも探す。

 

 

 

 

 

残存

ひとつの物語が終わって、

またひとつの物語が終わる。

 

それは自然の摂理で抗えないものだけど

今日はやっぱりまだわたしは

無意識に執着していたり

今じゃなくて過去に没入していたりするんだなってことを気付くことがあった

 

過去に一緒にいた人が

結婚したと聞いた

これ以上嬉しいことはないはずなのに

例えば今がどんなに幸せでも

途端にないもの探しや

知っても何にもならない事をさらに粗探しして自分をいたぶるようなことをし始める

思考や感情に翻弄されて。

 

大切なのは いまであるということを

取り返しのつかない行動をしてしまう前に気付かなくてはいけない

またひとつ 目の前にいてくれる人を傷つける前に

気付かなくてはいけない

 

自分の人生を生きる

いや 生命がわたしを生きる

そういう意味で 長年の呪縛から

解放された日だったのかもしれない

もう

不幸にしたんじゃないか とか

今も生きづらいんじゃないかとか

そういう

人に対して 影響を与えられるなんて

奢った考え方は辞めたいな

 

そして

その弱さに惚れながらも

誰よりもその人を信じれるような

一緒にいて 力が湧いてくるような

そんな関わり方を していきたいな

 

心配されてるよりも

信頼されてる方がよっぽど力が湧いてくるから。

信じて 頼りたいと思えるような人になりたいし

信じ 頼ることができる人でありたい

 

最近のマイブームの言葉は

「その身のままで」

その身のままで 恋をして

その身のままで 発散して

その身のままで 時には傷ついて

また己の力で立ち上がれるようになりたい

 

 

中秋の名月は9/24

香道の教室にて、香り遊びを楽しみながら、

いつぞやの秋の月に想いを馳せる

いつの時代も人は月を見上げて

その自然の大きさに感服しながらも

時にはたったひとりを思い浮かべたら

時には大きな世界に ただ圧倒されて

そうやって巡り巡ってきたんだろうな

 

 

 

すべては起こるべくして起きている

今日は月 1度のメンタルクリニックの受診だった。

薬は出てないから、認知行動療法にあたる精神療法という名目で 日々感じたことを書き留めて それを医者に見せてフィードバックをもらうということをしてもらう、通称交換日記

 

この交換日記の効果はわたしにはとても効果的で

書くというプロセスを通じて自分を客観視したり

フィードバックを通じて 自分の認知の偏りに気付いたり なんだかんだ はじめて4ヶ月経過したけど

 

書くという行為自体がこのブログと同様 今は 生活の中での習慣というかないと困るような位置付けになるまでに 大切なことになった。

 

そもそも、人間の頭の中には意識無意識含めて膨大な思考感情が渦巻いていて  それを口に出すということは 自分の中の情報を自分で編集してアウトプットするということなのだけど、

わたしはとてもそれが昔から苦手だ。いきなり話せと言われても 頭の中で情報を統合することもさることながら

話すトピックか否か考えすぎてしまったり 相手に話すべきことかどうか迷ったりしてしまう警戒心も相乗効果で 信頼しきれていない人や前後の文脈を知らない人にいきなり話せといわれても「。。。まぁわたしのことはそんな話すことでもないですし」とテキトーに切り上げるのが一番楽であり、生きる手段でもあった。

 

感情を表に出にくい人でも 健やかに生きている人はいる。ただわたしの場合は感情を表に出すか出さないか というよりも このもやもやの正体がなんなのか 言語化出来ないことで自分の中の感情と認めることが出来なかったことが 感情を出せず、ストレスを溜めに溜めた要因だった。

 

そういう経緯もあって

書き始めた時は そもそも何を書いて良いかわからなかったり 読み手を意識しすぎてしまったりして

なかなか自分の中身をシンプルに炙りだせない時期もあったけど、

書き出したものを読み返す、同じ単語が出て来てないか見直す、フィードバックをもらう、揺さぶられる感情や思考に出会ったらまず書き出す、というプロセスを通じて、自分が何を考えているのか、何を感じているのか ということを よりシンプルに観察できるようになってきたと思う。

 

感じてはいけない感情はない、という言葉は精神科医名越康文先生の言葉だと以前 どこかで見たけれど、否定も肯定もせず ただ そこに反応があるということを認めるっていうことが、いかに精神衛生上必要なのかっていうことを自分の体を使って学んだ気分。

 

ということを踏まえて、

あー うつ になって良かった

あー 順調に仕事がいかなくて良かった

すべては起こるべくして起きてるんだな

自信がないのも

言葉にしづらいのも

すべて 意味付けをしてるのはわたしだったと

気付くことができて良かった、と思うのです

 

まぁ 正直 4ヶ月休んで 服薬なしで良くなるのは鬱じゃないけどな。鬱ってもっとすんげーものだぞ と

今まで見てきた人を見ていて

気軽にうつ とかいうものでもないなと最近思うんだけど。

 

流されて生きていく。

 

 

 

 

ニュウ アース

エックハルトトールのニューアース

ヴィパッサナ で出会ったダライ・ラマに教えてもらった本を少しづつ 読み進めているのだけど

中盤になって目から鱗の言葉の連続です

 

この本を理解できる知性、というか前提条件見たいなものが多くあるような気がして

この世界観は 理解できるタイミングに来ている人と

そうでない人にわかれるようなきがしている。

あなたが命を生きてるんじゃない、生命があなたを生きているのである。

自分らしくいることを意識し始めた瞬間にもうエゴが どうしたら自分らしくいれるのか?と考え始めている、と。

思えば HOW TOを求めてきた人生だった。

求めるから 手に入らない

探すから 見つからない

だいたいのものはすでに自分の中にある ということに気付くまでが長い道のりだった そして気付いたことでこれが道半ばということを 知る

 

すべての人間の想像力から作られた役割や思い込み、概念や強迫観念めいたもの すべて すべてから解放され

自分自身が創り出している地獄という エゴの為せる技を 自覚すること

 

このままでいい、ただ自覚的であれ、ということ。

 

そうしてスクワットチャレンジ29日目の夜が更けていく。

 

親しい人にしか見せていないんだけど

スクワットって本当すごいんだね。

太ももにメリハリができた気がするし

お尻が上がったからか足が長くなったような気がするし

やり始めると 腰も ふくらはぎも 背中も くびれも

と自分の体を支配する感覚がくせになりそうです

 

胸は生まれ持ったものだけど お尻は努力で変えられるという名言に心支えられ。。笑

 

顔は荒治療でしか変えられないけど

体って毎日の生活がつくるものだから その人らしさが出るな、と思った次第

 

なぜあんなに無いものばかりを見つめていたのだろうと 不思議に思う

いつでも愛は 寛容だねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境目

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眠れない夜の割合がまた、増えてきている。

窓の外は静かで、鈴虫の音だけが聞こえる。

 

体と頭のバランスは すごく大事で

ちょっと油断すると すぐ意識が上の方に登ってきて

頭は忙しくあれこれ考えてるのに

身体感覚はゼロ もしくは 空腹とか そういうわかりやすいものしか 認識できなくなる。

 

大量の情報だけ食べて 時には本当に食べてる時にすら 意識はスマートフォンの中で

これは 本当に 頭の中を侵食する 

絶えず食べていないと 死んでしまうわけでもないのに 空白に耐えられない私がたまにいる

 

本当は

1秒1秒 呼吸をすることで生きていて

絶え間なく心臓が動いていて

血液も循環していて

そのおかげである今じゃなく

どこか違う方向ばかり見てるからおかしなことになることばかり

 

呼吸だけを見つめて

ようやく10分経って 重心が真ん中に戻る

 

無意識と意識

人間とヒト

生きることと生かされること

自然の脅威と人間の知恵

 

生きてるだけでいろんなことが起こる。

大切な人としばしのお別れや

ITが発達していなかったら知ることもなかった遠い北海道の事情

わたしの部屋に迷い込んできてしまった蝿の羽音

 

夜中と夜明けの境目はどこだろう

見上げた空は同じで繋がってるなんて

どこの誰かそんなロマンティックなことを考え始めたのだろう

 

明日は いつか 住んでいた世田谷に

懐かしい気持ちになるんだろうか

目的など どこにもいらないから

ただ 今だけを生きたい

 

 

 

9月の風について

アースウィンドアンドファイヤ!

セプテンバーが来た。

 

8月はわたしにとって、おじい、おばあ、べりーちゃんの命日があって、

毎年、どこか 誰かが乗り越えられないんじゃないかって 不安なのですけど。

 

同時に大切な人の誕生日もあるし、

今年の8月は 今までのなっがーい トンネルから抜け出したような そんな月でもあった。

 

まだまだあついのに、

開けた窓から、ふと、金木犀のような香りがして、

カレンダーの日付を見たら、もう、夏は終わっていた。今日ばかりは蝉すら鳴いてないな。閉店か?

 

良い夏だったなぁ。

特別なことは何もしてないのに、特別なことが飛び込んで来てくれたんだ。

 

最近は、予定が入っていないと本当に暇なので、

本ばかり読んでいます。

 

本は紙で読みたい派のわたしは、

また、買いあさって、読み切ってないのにまた買って、今のところ1日一冊のペースで、言葉を食べている。まんがでわかる古事記から笑、雑食でいろいろと。

 

昨日つい手にとってしまったむらかみさんのところ  という本は

熱烈なファンの方からの質問メールに一つ一つ村上春樹さんが至極丁寧回答していく様をそのまま記録したものなのだけど、

これがおもしろくて!一晩で読み切ってしまった。

村上春樹さんの作品は何を読んで何を読んでいないのかわからないくらい浅い読み方をした記憶しかないのだけれど、

 

質問に対する回答の仕方から見える人柄や、はと目が開くような回答がいくつもあって。

 

知的で文学的でお茶目な男性っていうのは、こうも魅力的なんですねぇ。もっと真剣に、村上春樹さんの作品を読みたいと思った次第でした。

エロいって言葉は使うな、セクシュアルだと言え、とのことで、これからはその教えに従っていきたいものです。

 

いずれにせよ自分という人間に開き直りつつも、大河の流れに自らを放りなげろ、みたいな人生観は、本当に勉強になるものがあったなぁ。。

 

9月はお花屋さんになりたい。

お花屋さんで風に吹かれたい。

小さい頃からの夢をふと思い出し、

どきまぎしながらも何軒かの花屋さんに問い合わせて見たところ好意的に話を聞いてくださるところを見つけた。

 

自分のための実習開拓、なかなか緊張しました。

初回アポは取り付けたので、あとは獲得までやるのみ。

 

みんなにはどんな9月の風が吹くんだろう?

 

 

 

 

喫煙習慣について

21歳くらいの時から、気がついたらタバコを吸っていてつい先日の瞑想で10日間 強制禁煙

 

もう吸うことはないだろうと 辞められてるか試した一服でまたぶり返し

 

量は減るものの 1箱買って2本吸って 

あぁやめると思い18本残るタバコを水浸しにしてすてるも また買い 捨て 勿体無いので最近は律儀に最後まで吸い と 見事な未練を発揮しながら今日まで過ごしていたのですが、

私の場合、そもそも美味しく感じるのなんて10本吸って1本あるかないかで あとの9本を吸っている時 あるいは吸う前 吸った後 食道が縮まるような息苦しさと慢性的な吐き気に襲われるのに、それが治らないうちに また 煙草に手を出すという 

サテ 不思議 という具合な訳で

 

あまりにも自分で不思議なもので、

最近はタバコに関する書籍をふたつ 読んで見た

ひとつは煙草讃歌、もうひとつは禁煙、というか断煙 をした人々の間では噂の禁煙セラピー という本。

 

煙草讃歌はまぁだいたい想像してた通りで

禁煙セラピーは  改めて

なんで自分は煙草を(どんな目的で)吸っているのか

何がきっかけだったのか

それは洗脳や思い込みである!

もう吸わなくてええんやで おめでとう

 

と、煙草をやめなくてはいけないという我慢辛抱忍耐力ありきの禁煙法ではなく

こんなに害のあるもの もう吸わなくてよくなった。素晴らしい。喜びなさい!

というメッセージが込められていて

禁煙に対する精神的な努力を要する一般的なイメージとは一線を画していた。思わず自分も 一旦本を閉じて いつからだっけ どんなことがきっかけで

と思いを巡らせることが出来た。

 

今日は、それを忘れないように 書き留めておく。

なぜなら、わたしはなぜ煙草を吸い始めたのか

自分でわかっているから もう。

 

当時のわたしはいま という瞬間に 耐えることが難しかった

いまという瞬間から連れ出してくれる何かが欲しかったから だから どんなに苦しくても 吸い続けたんだ。

高まる衝動とかストレスとか緊張とか不安、憂鬱を一度吸い込んでから 大きく吐き出す行為

それは深呼吸をする前に一度全てを吐き切ってから吸った方が多く吸える、そんな道理と似てる気がする。

吸ってる間は 煙草を吸っていること自体ではなく

その後の時間が来るのを先延ばしにしたり

自分の中に生まれた感覚に執着したり

そうして 生き延びてきた節があるのかもしれない。

 

だけど結果的にそれはわたしを救わない ということが麻薬依存者であることをきっぱり断言されて改めて はたと気付いたような気持ちになっている。

 

禁煙じゃないのだ。断煙。さようなら煙なのだ。 

幸い いまを生きる術 代替手段は身につけているはずで、愛しい楽しみと別れるわけではなく、

ズルズル引きずっただめな彼氏と別れるような

そんなさようなら と手放すような

そんな感覚に似ている。

 

もうなくても、生きていけるんだ。

ゆるやかな自傷行為が 幕を閉じる予感。

まぁやめて5時間くらいなんで。まぁね。