行動できない時に考え直してみるべきこと

行動には目的がある。

やればわかる、とりあえずやらんと始まらんと世間では言われ、ド正論ながらに、やる前に考えすぎちゃう私なりに、やるべきとわかっていることでも、なぜすぐに動けないのかということを考えてみた。

 

それは、望む行動を出来ない原因ではなく、望む行動をしない目的に着目するということ。

 

全ては、望んでその結果を引き寄せている、ということについて。引き寄せの法則とか、心理学とか、詳しいことはわからんから、実体験に基づいた話をしてみます。

 

以下は、自分の行動がどんな目的に基づいてるのかわからなかった時に書き溜めた内容。

 

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昨年末ひょんなことからモデルの事務所に所属をしてから、ずっと動けずにいることがある。

最近は、インスタグラムのフォロワーが多い方が仕事が入りやすいから、インスタグラムはいろいろ研究した方がいいよ!というアドバイスのことだ。

 

言うまでもなく個人のアウトプットが認知度に繋がる時代で、大手の事務所に所属していないタレントや、既に有名な人、専門分野で活躍している人を除いて、無名→ネットでのアウトプットで何かしらの注目を浴びてアップ→メディアに出演という構図がいわゆる現代における「社会的な立場を確立する」王道コースになっていると思う。

個人のブランド力の時代なのだ。

 

正直、普通であることを否定するような響きに感じ、この個人のブランド力という言葉を使うのには抵抗がある。

同時に、自らのやっていることや顔を堂々と世界に発信する価値観について、特にインスタグラムの世界観には軽薄さすら覚えつつ、それを享受している自分にも矛盾を感じる。

 

もちろん、自分のやってることがブランドだなんて思わず粛々と生きてる人が取り上げられるケースもあるし、スポットは当てられなくともただ粛々と自分の人生を生き、死んでいく人もいる。そういう人たちを、美しいと思う。

これは、自己PRすることへの抵抗なのか、わからない。そうだとしたら、そこにどんな心理があるのか、わかるようなわからないようなそんな気持ちである。

 

ぶっちゃけ、したいかわかんないけど、した方がいいと言われて、自分の感情とやるべきと言われていることのギャップを埋められない。

そのギャップがなんなのか、ということを書きながら自分なりに納得がいくまで考えてみたい。

 

前提として、知名度っていうのは、武器になる。

多くの人から注目を浴びている人材は宣伝になるから、歩く広告塔のようなものだ。

当然お金になる。だから多くの人が欲しがる。

 

SNSの使い方でわかれるのは、情報を発信しそこから物事を生み出す人と、基本的には享受することがメインである人の構図だと思う。

 

その中で、アウトプットする人にフォーカスして考えてみたい。

アウトプットする人には2種類いて、ただその注目を集めるという行為に没頭するという意味で有名になりたいからそれを追いかける人もいるし、個人に限っての話であれば戦術として知名度を上げるためにSNSを活用している人もいる。

 

無意識な没頭と自覚的な活用の違いだ。

 

無意識な没頭はそれだけ情熱をおびるし、そこには無理な努力がいらない。好きでやっているのだから。わたしもこのブログは、ただの日記ではありつつも書かずにはいられないから書いているだけでそこに努力はない。それが評価されるかどうかは別だけれど、ただの趣味だ。

ただ好きなものを投稿してたら、それが仕事に繋がっちゃった人たちがいわゆる趣味を仕事に系の人なのかも。

 

 

一方で、自覚的な活用をしている人は、何か別に目的があってアウトプットを手段として使用している人たちだ。 

 

仕事や集客に繋げたい、同じ趣味の人と繋がりたい。本業の宣伝チャネルを拡大したい。届けたい情報がある。等々。

 

自覚的な活用から、無意識の没頭に繋がる人もいれば、無意識に没頭してたら活用できることに気付くみたいなパターンもあると思う。

 

わたしがインスタグラムを活用した方が良い、と言われて自分の中に違和感を持ったのは、前者の無意識の没頭は出来ないことを意味している。

それが出来てたらもうやってるはずだから。

合理的に考えたらどう考えても自覚的に活用するのが正解なんだろうなと思いつつ、

では、なぜ正解とわかっているものが選べないのだろう。と疑問に思う。

 

自己否定が得意な私は、やるべきなのにやらない自分を責めがちな思考パターンを持っているけれど、それだと苦しいし、何も解決しないので、冷静に何が問題になっているのかを考えてみる。

 

正直、知名度が上がって得られるメリットはでかいと思う。自分の承認欲求も満たされる。

一方で、自分が発信する情報に価値があるとも思えないという気持ちもある。

 

その矛盾した気持ちのアンバランスさがそこにはある気がする。

認められたい、という気持ちはそれなりにある、と思う。ていうか、ある。普通に、かなり、ある。

 

欲望があれば、それを叶えるために正直になれば良い話なのだが、私の場合は、それが大きめの自意識に邪魔されてる気がする。

要するに、知名度アップのために努力する自分が恥ずかしいってことなのかもしれない。

これ、かなり拗らせてる気がしてきた。

 

正直、ツイキャスとか見てると、超普通のギャルが多くの視聴者を獲得していたりする。

共演したモデルさんのインスタグラムのフォロワー数が万単位だったりして驚いた出来事が最近あった。美人の部類には間違いなく入るけど、そんなに目を見張るほどではないよねと思ってしまう普通さなのだ。リアルで見ると、粗が見えるのもそうだし、わかりやすい整形していたり、ダサい私服を着ていたりする。普通だ。

 

ただ、ちゃんとファンがいるのにはそれなりの理由があって、定期的に発信していたりとか、自分の武器がわかっていたりとか、そういうのももちろんある。

 

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等々等々、長々とこねくり回してる。

 

 

やりゃいーじゃん!

なのに、なんでやれないのか。

私なりに書いてて感じたことは、

もともと自己評価が高くないこともあるので、自分を客観的に見辛いというのもあるけど、

 

本当は有名になりたいと思いながらも具体的なアクションをしないことによって、「ポテンシャルはあるけど、努力してないから出来ないだけの私」を守ろうとしてるんじゃないんだろうか。ということ。

 

いわゆる、傷つきたくないからやらない。

 

ここまで自分が書いたものを見返しながら、

自分の行動を正当化するために、こうも理屈をこね回せるのかと思ったらゾッとした。笑

 

つまり、行動しないで批判していることの目的は、自分が本当は何者でもないってことを正面から受け止めたくないから、ということになる。

 

つまり、普通なんだとかディスってるモデルさんや一般人の配信者に対しての感想は、ただの嫉妬ということ。震える。嫉妬をなんか考えてる風にこねくり回しただけだった。

 

自分の嫉妬を、

うらやましい

わたしもああなりたい

と思ってることを認めず、批判的になることで

同時にどうせ無理だ、という卑屈ちゃんがいることをなかったことにしていただけでした。

 

卑屈な自分は、どうあがいてもいるし、いていいんだけど、その卑屈ちゃんが傷つかないために守りに入るんじゃなくて、その卑屈も味わいながら、自分の素直な気持ちはなんなのか?と考えなきゃいけないな、と思いました。

 

卑屈仲間がいたら、ぜひ卑屈になることによって自分は何を守ろうとしているのか目を向けてみるといいかもよ。

 

 

 

 

 

雑記 冬の終わり

前回の記事で、

 

何があったか、誰かどうしたか、そんなことに興味はない。私が知りたいのは、あなたがそれをどう感じたかということだ。

 

なぞ書いた後、本当にそうか?と心配になった。

 

というのは、そんな心のディープな部分や触れ合いは、それぞれがどう感じたか、を語ることのみでしか実現しないものではないのでは、と思ったからだ。

 

例えば、同じアーティストが好きだ。趣味や興味関心が同じだ。ということ。

中学生時代にジャニーズにはまっていた頃、ある種の熱病に冒されていたと思うのだけど、同じジャニオタというだけで急速にジャニオタ同士の距離は縮んだ。そこには同じものを愛している=あなたとわたしはジャニーズを介して繋がっているという安心感があったからだ。人間関係はまず距離を縮めるところからだ。その後関係が深まるかどうかは、いよいよ相性による。

 

今だって、soarやNEUTといった既存の価値観に縛られない世界観を持つニュートラルな視点のメディアを好む人とは、そうじゃない人と比べて仲良くなれると思うし、コルクラボでいう平野啓一郎さんや山田ズーニーさんがある種のコミュニティの中において集中的に読まれたりするのは、やはり似た価値観を持つ人は似たものに惹かれるし、同じ価値観を共有できる仲間を求めて集まっていることが多い。

 

共感しあいたい、というのは根本的な欲求なんだと思う。

 

ここまで書いていて、では、似た価値観や世界観を持つ繋がりたいひとたちと繋がるためにはどうしたらいいんだろうと考えると、やはりアウトプットしかないのだと思う。

 

その場所に行く、というのもあるのだろうけど、その場その場のコミュニケーションを苦手とする私にとっては、自分がどんな人間で、何を考えているのか、何をしたいのか、ということを、何かを通して表現していくほかないのだろうという結論に至った。

 

こんなことを考えたのは理解し合いたいという欲求を自覚したからでもあり、その手段として何をやろうか考えることが仕事を通じてあったからだ。

 

コマーシャルの撮影現場で出会った人々を見ていて、映像を作る仕事をしているひとは、言語が抽象的である場合が多く、言葉遣いの雑さという意味も含めて、粒度が荒いコミュニケーションが飛び交っているという感想を持った。

つまり、そうじゃなくて!という相手の理解度やそのアウトプットに対する苛立ちを表す言葉がよく聞かれた。

 

 

作りたい世界観を表現するには作り手の共通認識が必要で、それを本気でやろうと思ったら、それはめちゃくちゃに時間も手間もストレスもかかることだ。

 

だけど、求められるのは完成度だけではなく、限られたコストの中で出せる最大の効果だ。

そしてそれらを汲み取り、正確に表現できる役者が、またはコマーシャルの最大の目的である購買意欲が掻き立てられる、ファンが多い役者が求められるのだということ。

 

少なくとも直接的、名目的には純粋な作品である映画やドラマ、演劇などに対して、コマーシャルは広告であり、購買が目的だ。たった一度の現場なので違うことも多いのだろうが、ひとまず撮影現場の雰囲気の違いはその目的にあるのだと感じた。

 

 

話は変わって、役者としての成長についても考えていた。

今回は役者、って呼ばれるから、こそばいけどそのまま表現するとして。

コマーシャル作りに参加する中で、現場で、本を読もう、読解力がつくから、という会話がなされていることを聞いて、あぁそもそも読書が習慣でないのがスタンダードなのかもしれないと思うと同時に、読解力と、表現力、どちらもかけては成り立たないのだと感じた。

 

見た目でファンがつくような容姿の人は、基本的に陽キャラが多い。何がそんなに面白いのかと思うほど、よく笑っている。内容を聞いても何が面白いのか全然わからないが、楽しそうでいつも羨ましく思う。手に入らない憧れ感がある。きらきらしている。

 

一方で、表面上はきらきらしているものの、深く物事を考えたり、相手の言わんとしていることを深く読み取ろうとする習慣がついていない人もこの数ヶ月で多く見てきた。

 

何も見えてないながらに少し垣間見えた部分について書いてみたけれど、要はバランスなのだと思う。

スター性と知性のバランス。もしくはそれを凌駕する本能的な勘やエネルギー。

 

会社員をやっているときはなかった、個人事業主や自営業者に囲まれて感じる、個人としてどう生きていくか、という問いが常に頭にある。

 

今あるものに感謝して生きていくのも良いのかもしれない。私は物事に執着できずにいつも生きていたし、今も9割のことについてはダメと言われたらすぐに諦める。適応性が高い資質ゆえ、逆境で状況をひっくり返してやろうという気持ちにはならない。大事なのは、この環境でどう生きるかってこと。

 

その中で出来るベストな社会へ問いを投げかけていく行為とは何かということ。序列の中で勝つことじゃない。序列でしか物事や自分を見れなくなったことで苦しんでいる人がいたとしたら、その人に誰かになろうとして自分を蔑ろにしてしまっていないか振り返れる問いを投げかけること。

 

書いた後に、結局自分のエゴだなと思う。自分が言いたいから言ってるだけであって、ここでもやっぱり理解してほしいんだなと、業の深さにびっくりすると同時に、裸ん坊のまま飛び込んでいくよりも、どうしたら戦えるかを工夫した方が知性のある戦い方なのではないか、と尊敬する人が言っていたこと思い出した。

 

石井ゆかり先生曰く、全ての星座の人にとって3月はすごい星回りだ、と。

劇的に新しいことが起こるというよりも、過去からグラデーションとなって揺るがしにかかってくるような、そんな流れがきているみたい、うまく説明できないけど。でもなんかしら大きな変化が起こる予感がしている。

 

サンガツ。春の予感がそこまで来てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が人間に求めるもの

自分の感情と向き合うには、日常生活には気を紛らわすものが多すぎる。

 

昨年末にモデルの事務所に所属して、何回かオーディションに落ちた後、特に手応えがあったわけじゃない大手企業のCMのオーディションに合格して出れることになった。

 

昨日今日とはじめてCMの撮影に行ってきたのだけど、新しい物事や文化、人に出会い、その中でよく知る感情にも出会い、という刺激の中で私の中にはその時々自分の中で何が起きていたのかじっくり向き合いたい欲求が生まれていた。

 

と同時に自分に向き合うことに必要な集中力のスイッチを入れることを先延ばしにしたりする。

朝5時に起きて14時に帰宅してから、昼寝したりなんやらかんやらで日付が変わって今に至る。

 

考えずにいられないのは内省資質だからなんだと思うのだけど、思った以上に生活の端々にその資質が良くも悪くも出ていることに、ふとシャンプーをしながら気付いた。

 

思った以上に、おしゃべりが苦手だ。

私をよく知る人はそんなことないように見えるかもしれないけれど、自分の中である程度考えて言語化できている感情や考えはそれなりに説明できる。

結果だからだ。それは、相手とのや対話の中で出てきたわけではないことが多い。

だから、お喋りしても、お喋り自体を楽しむことが出来ない。そこに発見はないわけだから。

 

会話に発見や気付きを求めるのは知的好奇心的とかそんな高邁なものではなく、ただ単に自分のことばかりに興味があるからなんだろう。

 

そこで気付いた。苦手なのは、対話ではなく考えないおしゃべりだ。

相手の言ったことを聞いて、その場で返答をする。

この時、私は相手の言ったことを噛み砕いて理解しようとするプロセスの中で、あー、とか、うーん、とかそっかぁー、とかしか出てこない。

 

反射的に、考えないで言葉を出すことも多分まるで出来ないわけじゃない。その代わり、いかに軽はずみなことを言わないようにするか、つまり相手を不快にさせないようにするかということを考えて返答するので基本的にはそうですよねぇとかそういうことありますよねぇとかっていう共感で終始することが多く、結果関係が深まらないってことがよくある。

 

多分、おしゃべりを楽しむ人たちはそんなこと考えていない。そこで起きる化学反応を楽しんでいるだけだ。

 

複数人でのお喋りに興味がまるで湧かないのは、その内容から気付きや発見を得ることが出来ないからというのと、ほとんどのお喋りは意味をなさないものだからだと思う。

 

複数人がテーマに沿って語る形式や、お互いのことを話す1対1の対話を好むのは、それをすることによって自分にない発想や考え方を知ることができるからだったのか。

それは、お互いに興味があることが前提となるし、同じ方向ないしは、互いを見ている。

 

わたしは誰かがわたしに興味を持ってくれたとわかれば嬉しい。語り合いたいと思う。

 

その興味の対象は、それぞれがどんな人間であり、日々何を見てどう感じているのかということだ。

 

新しい知識を得ることや学問が好きなのも、世界をどう見るかの手段だからなのかもしれない。

逆に言えばそれ以外のことには、興味がわかない。

 

何があったか、誰がどうしたか、そんなことはどうでもいい。わたしが聞きたいのは、あなたがそれを見てどう感じたかということだ。

 

そういうことを、話したがらない人もいる。

聞かれなくても上手に切り出す人もいれば、

それをモノやサービスやあらゆるものに形を変えて表現する人もいる。

 

だけど、相手のことをきいても、かわされてしまう感覚がある時もある。

そういう時、相手はかわしている自覚があるのかもしれないし、ないのかもしれない。

話したくないのかもしれないし、そもそもそんなことに興味はないのかもしれない。

どちらにしろ、その時点で、その人との通信手段を失ってしまったような気持ちになる。

 

わたしの最近の悩みはそれだ。人と繋がりたい、だけど人と繋がることが難しく感じる。

寂しく感じる時もある。でも、中身のない会話が宙に飛び交う空間にいるのはその100倍寂しい。

雑談が得意になりたいわけじゃない。だけど、私は私を理解してくれている、と思える存在が出来るだけ多くいて欲しいと感じているのだと思う。

 

きっと誰かとのお喋りで消化できていたら私はそもそも書いていないし、それを公開したりもしていない。公開するのは、誰かの心に触れて、繋がれることがあったらいいなと思うからだ。

 

言葉が不要なこと、それは音楽であり、アートであり、踊ることでもあるかもしれない。スポーツであり、セックスかもしれない。根底にあるのは、誰とも分かり合えない孤独を持つ人間が、それでも誰かとの繋がりを求めるゆえの営みとして作り出したものなんじゃないか。

 

物事は繋がってるからか最近歌を習い始めたのだけど、これがすこぶる楽しくて楽しくて仕方がないのも、そういう理由からだと思う。行き場のない根本的な寂しさを、音に乗せて飛ばしていくんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を逸らしていた感情

ここ最近、悩んでそうな人と触れ合う時、共通しているように思うことがある。

それは何かということはまた別で書くとして、あまりに浮き出て見える。わたしがわざと探そうとしてる可能性もあるのかもしれないし、自分の中にあるものが相手に投影されているだけかもしれない。

 

もし探しだそうとしているとしたらなぜ?

考えられるのは、相手にそれがあった方が都合が良いからだ。つまり、相手にそれがあることで自分の存在理由を見つけようとしているということ?

やっぱり、どこかで役に立って、自分の価値を実感できるタイミングを探しているのかもしれない。

相手を見ることで自分を見なくて良いというのはあるかもしれない。見たくない自分って何だ?本当はわかっているような気もする。

 

これからどうにかなるだろうという自分と、

こんなに甘えてるだめな自分、という自己評価。

 

生活費も満足に食べ自分で払えないくせに、楽しいことだけは一丁前にやるのか。という自分への声。

 

モデルになると決めたけど、結果が出るかどうかは自分次第なんだぞ。出来ることは全てやった上でだめだった、と言えよ。という、だめだったを前提にした思考。

 

口では未来のことはわからないと言っておきながら、どうせいつも私は努力出来ないし、前職でも目覚ましい結果なんて出せなかったし、きっと無理だ、という諦めの感情。わたしなんかという思い。

 

その自分を、そうやって出来ない理由ばかり連ねる。。と情けなく思う自分。

 

全体的に自分を責め、また信用していない。そういう感情を見ないふりしていた気がする。

だから、目の前の人が感情と向き合っていないこと

にいらついたのかもしれない。

 

モデル事務所に縁あって入ったけど、モデルが向いてるかはわからないし、と不安を見ぬふりしていた。きっと売れない、この歳になってそんな無謀な挑戦恥ずかしい、という虚栄心。

 

もちろん、ネガティブな感情ばかりではない。

モデルだけじゃなくて色々な可能性を追求して行きたいのも、未来のことはわからないから、コントロールしようとしてもあまり意味がない、という感覚も嘘じゃない。

 

でも、コントロールできないものだけで人生流されていくままというのも、少し違う気がする。

自分の感じたことを大切にすることは、なにかが偶然に起こってくれることを期待して、たらたら過ごしててもオッケーって、という具合につごうの良い解釈をしたらいいわけじゃないんだろうな。

 

 

自分の苦じゃないことや、有りたい姿に向けて、そういうふりをすることをコツコツとやっていければよいんじゃないか。

いやになったら、辞めれば良いのだしね。

 

不安を消すためではなくて、わくわくのために。

やっぱりなんかのコミュニティに所属したいような気がするなぁ。そういう前向きな想いを共有出来るような。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヨメニカ

ヨメハン=余命半年だったらどうする?のイベントから4ヶ月。

 

残された時間は60日になった。

もちろん常にそれが頭にあるわけじゃないけど、ふと頭に浮かぶ、余命半年だったらこの選択をするか?という質問は、それは恐れや不安を埋めるための選択で、本当に望んでいるものではないのでは?と自分に聞いてみるための、とても重要なキーワードになってくれた。

恐れや不安を埋めるための選択はいけないのか?と改めて自分に問うてみても、やっぱり、空いている隙間を恐れや不安を避けるもので埋めたら、本来入ってくるものが弾かれてしまうから、結果望んでいた通りにならない気がする。

 

会社を辞めると決める。

モデルを名乗ることを決める。

彼と一緒に住むと決める。

 

全部、主体的に決めたか結果であって、もしヨメハンの問いがなければ、絶対、今はない。

 

当たり前の、今の選択が未来を作るという感覚。

未来のことを考えず、今に集中する、ということが結果望んだ未来を引き寄せるという謎。

まぁ、どう転がっても、結局はそうなるべきだったからそうなるのだと信じているんだけど。

 

今日は、歌のレッスンにいってきたんですが、

もう先生が、最高で。この人と出会うために今までボイトレに行きたいと思いながら伸ばし伸ばしにしていたんだな、と思うくらいに、楽しかったし、嬉しかったし、感動したし、興奮した。。。

 

だって、思う存分表現していいんだもん。

それって、最高だった。

自分という楽器を鳴らすこと。

声が体を離れて飛んでいくこと。

歌うように生きたい、生きるように歌いたい。

特別な才能を持つ人だけに許されたことではなく、

ただ歌いたいと思う、それが最善のタイミングだったのだなぁ。

モデルの業界に飛び込んでみなければ、表現について考えなかったし、演技についても考えなかったし、歌おうとも思わなかったから、すべては繋がってて、売れなくても、下手なままでも、それでも楽しいからやる、目的なんていらない、その素晴らしさを、いま、こころから感じている。。。

 

これ以上幸せなことってないと思う。

 

まぁ、来週のスケジュールは真っ白。

真っ白なことに善悪はない。

考えないで済む為に埋めるよりも、飛び込んでくるものに扉をあけていたい。

 

とはいえ、なぁにしよっかなぁ

だらだらしちゃう可能性もあるし

それはそれでいいんだけど

旧来の自分の価値観もまだあって

無駄に時間を浪費しちゃいけんとか

何かすること考えなきゃとか

まだまだある。

けれど、あと60日だからなぁ

ここで昔の自分に戻ってもねぇ

どうしようかなぁ

みんな5日あったら何したいんだろ

みんながしたいこと代わりにしてあげようかな

誰か何か面白いもの持ってきてくれないかなぁー笑

 

他力本願になれた自分が好きすぎてたまらん。笑

なんかインスピレーションが降りてきてくれるのを気長に待とーっと。

 

 

おやすみなさい せかい♬

 

 

 

 

他人と生きるということ

わかってもらえない。受け止めてもらえないと感じたことのある人はどれくらいいるんだろう。

 

誰かと会って、相手にわかってもらえない、わかろうとしてもらえないと感じたその時、相手もまた同じことを思っていることは、結構多いんだと思う。

 

理解されたいというのは人間の根本的欲求で、ネットでググると承認欲求にカテゴライズされるみたい。承認欲求。認めてほしいという想い。

 

それらを外に求めるのは、自分が自分を理解する、認めることが出来ていないからであり、結局は自己肯定、いわゆる自分のどんな思考や感情もそのままに受け入れることなのかもしれない。

 

となると、理解してほしい!という欲求もまた悪いものではなく、健全な欲求であるということだ。

そして、外に求めても満たされにくい欲求でもあると思う。数字や地位といった記号的な承認もまた、その特徴として永遠に他者との比較が続くということでもあるし、それはあくまで記号に対してであって、本質的な自分自身じゃないからだ。

 

自分以外の人々が、他者を認めてあげたくて仕方ないなら別だ。供給が需要を上回ってたら、もっとかんたんに手に入れられるはずだ。

 

でも、そうじゃない。みんな認めてほしいし、大切にされたいし、無条件で肯定してほしい。

 

自分で認めることが出来て、あるいは親密な関係の誰かから認めてもらえる状況があってはじめて、私たちの耳には誰かの認めてほしい、が届くのだと思う。そして認められてる実感があってはじめて、他者を認めることが出来るのだと思う。

 

シンプルに認めてほしいんです!って言えれば楽だけど、そんなに素直になれたら誰も苦労しない。

 

たくさんの人が、自分で自分を認めることが出来ないが故に、外にそれを求めているのかもしれない。

 

ただ、他者に期待するということは、思い通りにならなかったときに傷付くことでもある。

相手にこう言ってほしいと思っているのに期待した言葉が出なかった時、裏切られた気持ちになる。

自分の意思で好きでやっているはずなのに、気付いたらそんな被害者意識が顔を出す。

 

無意識の自己犠牲から、それはいつも始まると思う。

 

こんなことをわかったように書きながらも、わたしの中にも認めてほしい!なんでわかってくれないの!と叫ぶひーちゃんがいて、今日は数十年ぶりにそれが爆発した。

 

本当に驚いた。だって、爆発するということは、ためにためた感情がいたということだから。

 

いろいろな感情に気付くことができるようになったと思っていたけど、まだまだ無意識に押し込めていた感情はあったみたい。

そして今回吹き出したのは、年季の入った、むかーーしからのものだった。

 

小中学校時代の経験を通して、感情的になることに対してとても抵抗があったし、すごく自制心を持って律してきたつもり。

 

その私が、目の前にいる人に、声が震えるくらい怒って、大きな声で泣いて、

 

なんでいつもわたしばっかり鈍感な人間に振り回されるんだ!!!!!

 

いい加減にしろ!!!!

 

自分の事以外の人のこと少しは考えろ!!!

 

って。。

 

止まらない涙をぬぐいながら、どこか冷静に、

あー、このわたしが感情的になれたんだなぁとか、

ずっといい子 頼れる子であろうとしていたんだなぁ

頼まれたわけじゃないけど、そうせざるを得ない環境にずっと置かれてきたなぁってことを考えていた。

 そうして帰ってきた反応は、相手の反省と変化だったのだ。

 

ずっと、ネガティブな感情は相手にぶつけてはいけないと思っていた。

嫌な気持ちにさせるだけだと。

そんな人間は愛されないぞ、と。

 

頭では人同士 生身でぶつかり合うことで相互に影響が出るのはわかっていたし、それ自体にいいもわるいもないとわかっていたけど

 

心の底から、どんな結果を得たいか、とか相手がどう思うかってことを考えずにただそのままの感情をぶつけるということは、記憶がある中では初めてだった。

 

最近、仕事を通じて頭ではなく心と体を使う練習が多くなったことも要因の1つだと思うけど、

今まで、自分の中で勝手に結論づけて黙ることで衝突をさけてきた自分が、考えずに人にぶつかることが出来たのは、とてもとても大きな進歩だったと思う。

 

人は、相手がどう思っているか、言われて初めて気付く、鈍感な生き物だ。それどころか、言われなければ勝手にこうだろうという誤解すらする。

 

私たちはテレパシーが出来ない。

だから言葉を使う。

言葉それ自体に善悪はない。

だけど、使う人間によって同じ言葉でも定義やイメージが違ったりして、よく誤解が生まれる。

同じ言葉でも言う人、タイミングによって、全く違う意味を持つ。

 

意思疎通というのは、とても、とても難しい。

多くの人が人間関係に悩む所以はそれだと言えるし、逆に人には伝わらない、という前提にたって言葉を使う人こそ、意思疎通がしやすいのだと思う。

 

 

非言語が得意な人は、言語が苦手故に表情や仕草を読み取る機能が伸びたのかもしれない。

 

芸に精通してる人は、言葉ではないコミュニケーション方法を選んだのかもしれない。

 

本やラジオだって、何かのプロがそれを伝える道具として本を出した場合、言葉の扱いは素人かもしれないし、

 

逆に文豪、作家、編集者のひとたちというのは、言葉を使って何かを伝えるプロだということだ。

 

話が随分とそれてしまったけれど、

大事なのは、

 

人はみんな違う言語で話しているからわかりあえないこと

 

人と付き合うためにはまず自分とうまく付き合うこと

 

このふたつが前提にあり

 

故に相手が察することを期待した曖昧な態度や言葉は汲み取られないことの方が多い

 

ともすれば、無駄にがっかりするよりも、

はっきりと自分の感情や意志を自覚し、責任を持って伝える

 

時には感情的になり衝突したとしても、それが他人と生きていく、つまり社会でという上での個人の責任なのではないかと思う

 

要は我慢してても自分が辛いだけだし、なんなら相手から気付くチャンスを奪っている可能性もあるということ。

衝突は悪いことではなかったのだなぁ。

衝突なくして、理解なし。笑

 

自己主張の能力は、鍛えられる。

このちからがついたとき、自ずと嫌いなこと好きなことを人に理解が得やすくなるし、

結果好きな人やことが近くにある状態をつくれるっていう。

 

今日の感情は大切なことに気付かせてくれたなぁ。

感謝だなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母になる事への不安

お風呂につかっていたら、唐突に思いついたことがあるので記録しておく。

漠然と、母親になる事への不安がある。その不安がなんなのかということを考えて見た。不快になる人もいるかもしれないが、あくまでわたしの場合なので、と前置きしておく。

 

出産ラッシュだ。

次々と友人に子どもが生まれていく。

子どもが生まれると、産んだ母親に対して、みんなお疲れ様、おめでとうと声をかける。

 

おめでとうという言葉は、何に対しての賛辞なのか、考え込んでしまう。

愛する人の子を産んだ事だろうか。それとも、女性として備わった機能の役割を無事果たせたことだろうか。お腹に子どもがいる時から、自分とともに育まれてきた命と対面できたことだろうか。命そのものに対する祝福か。そのどれもなのだと思う。

 

きっと出来たら死ぬほど大切にするのだと思う。

全力で守りたいと思うのだと思う。なのに、この産む、という決断に際してのハードルの高さはなんなんだろう。

 

 

わたしは、子どもを生む事を、怖いと思う。同時に、出来ないかもしれないと思う。

子どもが出来なかった女性はわたしの周りにたくさんいる。

常に出来ないかもしれない、と頭で思いながら、出来た時の事も考えている。

体内で子どもが育つということに関して、自分が今まで体に溜めてきた毒を一手に引き受けてしまうのではないかという恐怖がある。

アトピーのあの苦しみや喘息のあの苦しみは味あわせたくない。

必ず遺伝するわけではないけれど、その可能性はかなり高い。

果たして健康な子が生まれるのだろうか。

 

それ以上に、子どもが母親の影響を多いに受けて育つ生き物である事を、怖く思っている。女は、子どもを産むと、母になる。

子どもを育てるのは、人生の一大プロジェクトだ。責任は重い。

だけどその割に参入障壁はとても低くて、母親になる条件は生殖機能が付いている事だけだ。

 

母になった瞬間に、生きがいを見つけたようになる女性は多い。

すごく嫌な言い方をすると、子どもを自分の人生の楽しみに無意識にすり替えているように見える女性も多い。その無自覚さに、とても不安を覚える。

母親の影響を強く受けて育つのに、自身が自身の無自覚さを自覚していなくていいのか?と。

子どもの話題で無邪気に盛り上がる女性を見て、その無邪気さや無自覚さが将来子どもを不幸にするかもしれないのだと、勝手な心配を覚える。余計のお世話だ。

 

母親同士のコミュニティを批判しているわけじゃない。その苦労や孤独は責任の重さと比例し、共感できる人同士の貴重さは計り知れず、共感できる人物はものすごく貴重だ。

 

言葉を選ばずにいうと、一人の人間としてのベースができていない人間が、人間を育てることがあって良いのだろうか、と考えてしまう。

 

ここまで書いていて、多くの人は考えすぎだというのだろうと思う。

というか、では、どういう人が一人の人間としてベースが出来ているというのだろうか。

情緒が安定している事か。経済的に自立している事か。自己実現をしている事か。

自分に不足しているものを子どもに背負わせないためには、自分に不足がない、あるいは不足と思える事をやりきった、と言えるレベルまで経験している事か。

 

そして、わたし自身、考えたからといって結果わたしに(子どもが出来たとしたら)子どもが幸せになる子育てができるとは限らない。というか、天真爛漫なお母さんの元で育った子どもの方が全然幸せになりそうだ。

こんな理屈をこねくり回す母親の元で育つ子どもは一体どんな影響を受けるんだろう。恐ろしい。

 

多分、わたしの母、という人物像に対しての理想の高さが要因にあるんだと思う。

そもそも、成熟していなければ母親になってはいけないのか。

完璧な母親はいない。だけど、なぜあなたは子どもを産んでしまったのだ、というケースは、ニュースを見ても、そして前職の現場でも見てきた。

 

そもそも、その成熟が最高に達する時、当然女性の生殖機能はすでに役割を終えている。

 

母親も子どもとともに成長していければ良いと、言われる。そうだと思う。だけど、それは子育てに関する技術やマインド、あるあるアクシデントに対しての習熟度に関しての話で、母親自身の価値観や根本的な人間性に関することではない気がする。(療育の世界では、発達障害のあるお子さんを持った両親のための教育プログラム、ペアレントレーニングなるものがある。その中で価値観を根本から揺るがされることもあると思う、が、あくまでそれは子どもがマイノリティな要素を持って生まれたことで、今までの当たり前が覆されたからであって、世の中のマジョリティの親に当たる人たちに子育ての中で価値観が揺るがされることは起こりにくい)

 

家族が欲しかったから、子どもを作った。そうやって脈々と子孫繁栄を続けていくのが世の常だ。別に考えなくていいならそれが幸せなのだろうと思う。

 

産む、産まないの選択肢が出来たからか。母親のモデルが多様になったからか。

近くで母親が子育てをしているのを、ずっと見てきた末っ子だからか。

そしてそれは幸せなことだけではなく、死ぬまで責任を抱えなくてはいけない事であると自分で見てきたからか。子育てに対して、あの時もっとこうしてあげればよかった(のに自分の余裕がなくて出来なかった)と後悔を残している母親を見ていて、してもらったことの方が大部分なのだから、そんなに自分を責めなくても良いのに、とも思う。だけど、兄弟を見ていて、適切なケアが出来ていれば結果は違かったのかもしれない、とも思う。

 

起こった事をいっても仕方ないのだけれど、たぶんそれを繰り替えさないようにという強い自制心が働いている気がする。そもそもそういう自己批判的な部分に見事に影響をうけ、この思考が出来ているのだと感じる。わたしの子どもも、自己批判的なこどもに育つのだろうか。こわいぞ。

 

書いていて、結局子どもも一人の人間であり、一人の人間と対峙できる母親になりたいと思っているのかもしれない。無意識に相手に期待したり、自分と相手の境界線が引けずに自分の問題を子どもに投影したりする母親にはなりたくないと思う。ふと自分の母親を思い返して、そういったところがまるでない母親だったと感じる。一方で、子育てというのは時境界線を超えてでも、親が子どもを守らなくてはいけない時がある。

相手の意思を尊重しすぎるのも考えものだ。

 

ここまでつらつら書いてきて思うのは、自分の世界を持っていたい。子育てとは別に。ということ。

わたしはたぶん子どもを産み育てる過程の中で、他の母親がとるに足らないと笑うことに悩みすぎるような気がする。あまつさえ子どもに遠慮し、言いたい事や感情をぶつけることを避ける母親になるリスクが高い。

これはもう一定性格だから仕方ない。だからこそ、その世界観だけに浸からないように、そして自分の性格を理解した上で偏らないよう、意識的でいたいと思う。

 

 

人生には何があるかわからない。考えるのもいいけど、楽しむことが出来なければあまり意味がない。

 

 

そして、書きながら、父親になる参入障壁の低さも同じだなと思った。同様に父親になることにあたっても、自己理解は必須だと思った。無意識に子育てのメインの責任があるように感じているのはわたしの思い込みだ。