いつの間に「与えなきゃ」と思っていた話

なぜか誰に命令された訳でもないのに、いずれ先生にならなくてはいけないと思っていた。

昔から自分の中の社会的成功のイメージとして人の前で何かを話している人、というものがあった。

それは学校の先生という意味ではなく、もっと広義の、イベントで登壇をしたり、自分の講座やセミナーを持っており、本業が「何かを教える人」ではなくとも私の「先生の定義」に当てはまるのだった。

 

きっかけは通い始めて3ヶ月がたつ歌のセッションをお願いしている講師の呟き。

「私、先生って呼ばれるの嫌いなの〜。だって先を生きてないし。何かを教えようと思ってやってる訳じゃないっていうか、教えられることなんて何もないし。ただ、自分にできることをやっているだけで、それをお金というエネルギーと交換しているだけだから。だから先生って呼ぶのやめて〜〜」

 

なるほどと思ったその後も癖のように相手のお名前ではなく「先生」っていう言葉が出そうになって引っ込める作業が続いた。

 

私の中では相当根深く

先生と生徒

 

この構図を「上下」の概念で解釈していた。

 

いつからか長い間、人に物を教えたり、上に立ったりする人間が優秀で、その人に教えを乞う人が生徒や部下であり、誰でもいつかは人に物を教える側に立つのがゴールであると。

 

いつからそんなことを思い始めたかはわからないけど、なぜかいつも自分の将来のイメージの中の私は人前で何かを話したり伝えたりしていた。そうなりたいと思って来たつもりだった。

何か新しいことを知ればこの知識をどうやって人に伝えるかを、いや、正確には人に教えることで「どう稼ぐか」ばかり考えてきたような気がする。

 

だけど、いかんせん、私は興味の移り変わりが激しく、人に何かを教えられるまで知識を深めることはかなり稀だし、相手のペースに合わせてこちらのやり方を変えていくのも嫌いだ。誰かに知識を伝えることよりも、共に勉強していったり、共に空間や時間を楽しむことの方が断然好きだ。

それに、人に何かを伝える時は完璧であらなきゃ自分を許せないから準備をめちゃくちゃするだろうな。それってすごく疲れそう。批判されたら傷つくんだろうな・・・。

 

そこまで心配ならやらなきゃよくね?笑 と今の自分なら言ってあげたいけど、自分でもなぜこんなに人に教えることができる、ということにこだわっているのかわからない。

 

だけど先日ふと頭に降りて来た「あれ、私はどうしてこんなにも『人に与えなきゃいけない』と思ってるんだっけ?」という素朴な疑問。

 

その裏には「受け取る」ということは下に立つ人間がすることであり、何か教えを乞うということは、相手に自分の負けを認めることと同義である、という思いこみがあった。

 

受け取るという行為より与えるということが高尚である。という思いこみ。笑

そもそも受け取ってくれる人がいなければ与えることって出来ないのに。

 

それに、人生、与えようと思って与えたことよりも、ただ自分がやりたくてやっていたことが結果的に誰かに影響を与え感謝される方が多い。

ピアノでもスポーツでもその知識や技術を夢中になって体得した人が、何かしらのきっかけで結果的に教える立場に立っている。中にはいるだろうが、初めから教える人になろうと思って教えているわけではないことがほとんどなんじゃないか。

 

「教える」という知識を授ける行為に対して思いこみが強かったのは、おそらく私のバックグラウンドにあるんだろうと思う。

教えかたひとつで、教師一人で、生徒の学びが変わる。未来が変わる。

ある意味想いが強すぎて、テキトーに考えられない。

 

そして「教える」ということが目的になり、根本的に何か授けたいもの、あるいは人から教えて欲しいと頼まれるものが手段となっていたことに気付く。

 

「先生」と呼ばれている人の中には、

先生になりたくてなった人もいれば、気付いたら先生と呼ばれている人もいる。

だけど、その先生も誰かの生徒であり、また生徒も誰かの先生である。

 

そう考えると、与える側、受け取るという側に人間を切り離すことは出来ない。

それはそこら中で起きていて、かつ時と場合によっていくらでも入れ替わるからだ。

 

教える側にたったからと言ってそれは自分が高尚な人間であることを意味している訳ではなく、同様に受け取る側に立っているからと言って弱者ということではないということ。

 

有難く感謝して受け取ったものが積み重なっていつのまにか知らない間に誰かに与えているのかもしれない。

 

「こうあらなきゃいけない」という思いこみは、

自分が思い込んでいるということすら忘れさせて自分の中に枠として残る。

今回のように、「教える側にならなきゃいけない」という思いこみは私の行動や発想を制限し、やりたくないことをさもやりたいことのように感じさせ違和感だけを残していく。それに気付くスピードが最近早くなってきた。

 

きちんと覚えておきたい。

感謝して受け取れ。それを受け取る権利が私にはあるし、

受け取ることは相手に与えるということをさせてあげていることでもある。

受け取ることは愚かなことではない。自分が満ちた時、自然と与えることになるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まばたき

ひさしぶりに文章を書く。

 

この期間の間に引越しをしていろいろバタバタ、ネットもないし、付き合ってる人と同居したので生活スタイルにも変化があって、なかなかひとりで集中して考え事をする時間がなかった。

 

日々の出来事の中で感じたことは書き留めておかないと消え去るし、形を変えてもう一度やってきたりする。いずれにせよ書いていない期間で、あぁ、ふと頭に思い浮かぶことはたくさんあるのに、ちゃんと納得するまで考えられてないなぁと思うことが多くあった。

 

環境の変化で人に会う機会も多かったり、暖かくなってきたから人の集まりに顔を出すことも増えてくると、そこで受けた刺激をちゃんと処理しないままにしておくことがとても気持ち悪い感じがした。

 

今はとにかく新しい家を居心地良いものにするためや役所のなんやらで頭も体も持っていかれてて、そういう時だから仕方ないのだけど。

 

考えたいこともたくさんあるし

絵も描きたいし

ウクレレも練習したいし

洗濯機がまだないし

服の片付けもだし

 

とか全てが同列にあって、私の体力やペースだと1日にふたつくらいしか出来ない。

 

仕事以外の私生活でやりたいことややらなくちゃいけないことが適度にあるって幸せだと思う。ある意味考えすぎなくて良いなって思う一方で、時間が驚くほど早く過ぎていって、気付けば3月が終わる。

気が付いたら桜が散りかけているような季節の過ごし方しかしていなかったここ数年。今年は桜の見頃まだかなって思えてて、それが嬉しい。

 

話は変わるけれど、

3月に入ってから、

手始めのように階段から落下したり

財布やあれこれものを無くしたり

計画通りに物事が進まなかったり

どれも全て結果大したことになっていないのだけど、いわゆるバグり的なことが多く起こっていて、

星回りの影響かと思い占星術に詳しい姉に聞いたら

水星が逆行中ときいて納得。28日までらしいのでそれまで気をつけて過ごそうと思った側から乗った電車が運転見合わせになって笑った。

 

そのおかげで普段乗らないモノレールにのって不思議な気分。

 

モノレールって上を走ってるから人身事故が起こらないんだね。上から吊られているはのにのっているとおもうとなかなかドキドキするけど。

 

ここまで書いた後に歌のレッスンへ。

歌のレッスンといってもほとんどお喋りしているかウクレレを弾いているかだけなんだけど。

先生に水星逆行中に起こった話をしたら、どんなことにもメッセージがあるから、どんなメッセージが届いているのか感じてみたら?とのアドバイス

例えば、財布を落としたことに関しては執着に関して、とか。その言葉を聞いて、今色々なことが上手くいかないのは、自分以外の要因で上手くいかないことはいくらでもおるから、何事もコントロールしようとし過ぎないようにってことなのかなとか

 

そう思ったらそれはそれで大切なことを見直す期間だなと思えた、単純な私なのだった。

 

寝よ。

少しすっきりしたけど、まだまだ、

・ある特定のことに関する自分の反応とか

・頭の中のお喋りについて とか

考えたいことはたくさんある。

 

 

けど、今日のところはここまでにしよ

おやすみなさい

 

 

 

 

 

 

 

 

行動できない時に考え直してみるべきこと

行動には目的がある。

やればわかる、とりあえずやらんと始まらんと世間では言われ、ド正論ながらに、やる前に考えすぎちゃう私なりに、やるべきとわかっていることでも、なぜすぐに動けないのかということを考えてみた。

 

それは、望む行動を出来ない原因ではなく、望む行動をしない目的に着目するということ。

 

全ては、望んでその結果を引き寄せている、ということについて。引き寄せの法則とか、心理学とか、詳しいことはわからんから、実体験に基づいた話をしてみます。

 

以下は、自分の行動がどんな目的に基づいてるのかわからなかった時に書き溜めた内容。

 

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昨年末ひょんなことからモデルの事務所に所属をしてから、ずっと動けずにいることがある。

最近は、インスタグラムのフォロワーが多い方が仕事が入りやすいから、インスタグラムはいろいろ研究した方がいいよ!というアドバイスのことだ。

 

言うまでもなく個人のアウトプットが認知度に繋がる時代で、大手の事務所に所属していないタレントや、既に有名な人、専門分野で活躍している人を除いて、無名→ネットでのアウトプットで何かしらの注目を浴びてアップ→メディアに出演という構図がいわゆる現代における「社会的な立場を確立する」王道コースになっていると思う。

個人のブランド力の時代なのだ。

 

正直、普通であることを否定するような響きに感じ、この個人のブランド力という言葉を使うのには抵抗がある。

同時に、自らのやっていることや顔を堂々と世界に発信する価値観について、特にインスタグラムの世界観には軽薄さすら覚えつつ、それを享受している自分にも矛盾を感じる。

 

もちろん、自分のやってることがブランドだなんて思わず粛々と生きてる人が取り上げられるケースもあるし、スポットは当てられなくともただ粛々と自分の人生を生き、死んでいく人もいる。そういう人たちを、美しいと思う。

これは、自己PRすることへの抵抗なのか、わからない。そうだとしたら、そこにどんな心理があるのか、わかるようなわからないようなそんな気持ちである。

 

ぶっちゃけ、したいかわかんないけど、した方がいいと言われて、自分の感情とやるべきと言われていることのギャップを埋められない。

そのギャップがなんなのか、ということを書きながら自分なりに納得がいくまで考えてみたい。

 

前提として、知名度っていうのは、武器になる。

多くの人から注目を浴びている人材は宣伝になるから、歩く広告塔のようなものだ。

当然お金になる。だから多くの人が欲しがる。

 

SNSの使い方でわかれるのは、情報を発信しそこから物事を生み出す人と、基本的には享受することがメインである人の構図だと思う。

 

その中で、アウトプットする人にフォーカスして考えてみたい。

アウトプットする人には2種類いて、ただその注目を集めるという行為に没頭するという意味で有名になりたいからそれを追いかける人もいるし、個人に限っての話であれば戦術として知名度を上げるためにSNSを活用している人もいる。

 

無意識な没頭と自覚的な活用の違いだ。

 

無意識な没頭はそれだけ情熱をおびるし、そこには無理な努力がいらない。好きでやっているのだから。わたしもこのブログは、ただの日記ではありつつも書かずにはいられないから書いているだけでそこに努力はない。それが評価されるかどうかは別だけれど、ただの趣味だ。

ただ好きなものを投稿してたら、それが仕事に繋がっちゃった人たちがいわゆる趣味を仕事に系の人なのかも。

 

 

一方で、自覚的な活用をしている人は、何か別に目的があってアウトプットを手段として使用している人たちだ。 

 

仕事や集客に繋げたい、同じ趣味の人と繋がりたい。本業の宣伝チャネルを拡大したい。届けたい情報がある。等々。

 

自覚的な活用から、無意識の没頭に繋がる人もいれば、無意識に没頭してたら活用できることに気付くみたいなパターンもあると思う。

 

わたしがインスタグラムを活用した方が良い、と言われて自分の中に違和感を持ったのは、前者の無意識の没頭は出来ないことを意味している。

それが出来てたらもうやってるはずだから。

合理的に考えたらどう考えても自覚的に活用するのが正解なんだろうなと思いつつ、

では、なぜ正解とわかっているものが選べないのだろう。と疑問に思う。

 

自己否定が得意な私は、やるべきなのにやらない自分を責めがちな思考パターンを持っているけれど、それだと苦しいし、何も解決しないので、冷静に何が問題になっているのかを考えてみる。

 

正直、知名度が上がって得られるメリットはでかいと思う。自分の承認欲求も満たされる。

一方で、自分が発信する情報に価値があるとも思えないという気持ちもある。

 

その矛盾した気持ちのアンバランスさがそこにはある気がする。

認められたい、という気持ちはそれなりにある、と思う。ていうか、ある。普通に、かなり、ある。

 

欲望があれば、それを叶えるために正直になれば良い話なのだが、私の場合は、それが大きめの自意識に邪魔されてる気がする。

要するに、知名度アップのために努力する自分が恥ずかしいってことなのかもしれない。

これ、かなり拗らせてる気がしてきた。

 

正直、ツイキャスとか見てると、超普通のギャルが多くの視聴者を獲得していたりする。

共演したモデルさんのインスタグラムのフォロワー数が万単位だったりして驚いた出来事が最近あった。美人の部類には間違いなく入るけど、そんなに目を見張るほどではないよねと思ってしまう普通さなのだ。リアルで見ると、粗が見えるのもそうだし、わかりやすい整形していたり、ダサい私服を着ていたりする。普通だ。

 

ただ、ちゃんとファンがいるのにはそれなりの理由があって、定期的に発信していたりとか、自分の武器がわかっていたりとか、そういうのももちろんある。

 

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等々等々、長々とこねくり回してる。

 

 

やりゃいーじゃん!

なのに、なんでやれないのか。

私なりに書いてて感じたことは、

もともと自己評価が高くないこともあるので、自分を客観的に見辛いというのもあるけど、

 

本当は有名になりたいと思いながらも具体的なアクションをしないことによって、「ポテンシャルはあるけど、努力してないから出来ないだけの私」を守ろうとしてるんじゃないんだろうか。ということ。

 

いわゆる、傷つきたくないからやらない。

 

ここまで自分が書いたものを見返しながら、

自分の行動を正当化するために、こうも理屈をこね回せるのかと思ったらゾッとした。笑

 

つまり、行動しないで批判していることの目的は、自分が本当は何者でもないってことを正面から受け止めたくないから、ということになる。

 

つまり、普通なんだとかディスってるモデルさんや一般人の配信者に対しての感想は、ただの嫉妬ということ。震える。嫉妬をなんか考えてる風にこねくり回しただけだった。

 

自分の嫉妬を、

うらやましい

わたしもああなりたい

と思ってることを認めず、批判的になることで

同時にどうせ無理だ、という卑屈ちゃんがいることをなかったことにしていただけでした。

 

卑屈な自分は、どうあがいてもいるし、いていいんだけど、その卑屈ちゃんが傷つかないために守りに入るんじゃなくて、その卑屈も味わいながら、自分の素直な気持ちはなんなのか?と考えなきゃいけないな、と思いました。

 

卑屈仲間がいたら、ぜひ卑屈になることによって自分は何を守ろうとしているのか目を向けてみるといいかもよ。

 

 

 

 

 

雑記 冬の終わり

前回の記事で、

 

何があったか、誰かどうしたか、そんなことに興味はない。私が知りたいのは、あなたがそれをどう感じたかということだ。

 

なぞ書いた後、本当にそうか?と心配になった。

 

というのは、そんな心のディープな部分や触れ合いは、それぞれがどう感じたか、を語ることのみでしか実現しないものではないのでは、と思ったからだ。

 

例えば、同じアーティストが好きだ。趣味や興味関心が同じだ。ということ。

中学生時代にジャニーズにはまっていた頃、ある種の熱病に冒されていたと思うのだけど、同じジャニオタというだけで急速にジャニオタ同士の距離は縮んだ。そこには同じものを愛している=あなたとわたしはジャニーズを介して繋がっているという安心感があったからだ。人間関係はまず距離を縮めるところからだ。その後関係が深まるかどうかは、いよいよ相性による。

 

今だって、soarやNEUTといった既存の価値観に縛られない世界観を持つニュートラルな視点のメディアを好む人とは、そうじゃない人と比べて仲良くなれると思うし、コルクラボでいう平野啓一郎さんや山田ズーニーさんがある種のコミュニティの中において集中的に読まれたりするのは、やはり似た価値観を持つ人は似たものに惹かれるし、同じ価値観を共有できる仲間を求めて集まっていることが多い。

 

共感しあいたい、というのは根本的な欲求なんだと思う。

 

ここまで書いていて、では、似た価値観や世界観を持つ繋がりたいひとたちと繋がるためにはどうしたらいいんだろうと考えると、やはりアウトプットしかないのだと思う。

 

その場所に行く、というのもあるのだろうけど、その場その場のコミュニケーションを苦手とする私にとっては、自分がどんな人間で、何を考えているのか、何をしたいのか、ということを、何かを通して表現していくほかないのだろうという結論に至った。

 

こんなことを考えたのは理解し合いたいという欲求を自覚したからでもあり、その手段として何をやろうか考えることが仕事を通じてあったからだ。

 

コマーシャルの撮影現場で出会った人々を見ていて、映像を作る仕事をしているひとは、言語が抽象的である場合が多く、言葉遣いの雑さという意味も含めて、粒度が荒いコミュニケーションが飛び交っているという感想を持った。

つまり、そうじゃなくて!という相手の理解度やそのアウトプットに対する苛立ちを表す言葉がよく聞かれた。

 

 

作りたい世界観を表現するには作り手の共通認識が必要で、それを本気でやろうと思ったら、それはめちゃくちゃに時間も手間もストレスもかかることだ。

 

だけど、求められるのは完成度だけではなく、限られたコストの中で出せる最大の効果だ。

そしてそれらを汲み取り、正確に表現できる役者が、またはコマーシャルの最大の目的である購買意欲が掻き立てられる、ファンが多い役者が求められるのだということ。

 

少なくとも直接的、名目的には純粋な作品である映画やドラマ、演劇などに対して、コマーシャルは広告であり、購買が目的だ。たった一度の現場なので違うことも多いのだろうが、ひとまず撮影現場の雰囲気の違いはその目的にあるのだと感じた。

 

 

話は変わって、役者としての成長についても考えていた。

今回は役者、って呼ばれるから、こそばいけどそのまま表現するとして。

コマーシャル作りに参加する中で、現場で、本を読もう、読解力がつくから、という会話がなされていることを聞いて、あぁそもそも読書が習慣でないのがスタンダードなのかもしれないと思うと同時に、読解力と、表現力、どちらもかけては成り立たないのだと感じた。

 

見た目でファンがつくような容姿の人は、基本的に陽キャラが多い。何がそんなに面白いのかと思うほど、よく笑っている。内容を聞いても何が面白いのか全然わからないが、楽しそうでいつも羨ましく思う。手に入らない憧れ感がある。きらきらしている。

 

一方で、表面上はきらきらしているものの、深く物事を考えたり、相手の言わんとしていることを深く読み取ろうとする習慣がついていない人もこの数ヶ月で多く見てきた。

 

何も見えてないながらに少し垣間見えた部分について書いてみたけれど、要はバランスなのだと思う。

スター性と知性のバランス。もしくはそれを凌駕する本能的な勘やエネルギー。

 

会社員をやっているときはなかった、個人事業主や自営業者に囲まれて感じる、個人としてどう生きていくか、という問いが常に頭にある。

 

今あるものに感謝して生きていくのも良いのかもしれない。私は物事に執着できずにいつも生きていたし、今も9割のことについてはダメと言われたらすぐに諦める。適応性が高い資質ゆえ、逆境で状況をひっくり返してやろうという気持ちにはならない。大事なのは、この環境でどう生きるかってこと。

 

その中で出来るベストな社会へ問いを投げかけていく行為とは何かということ。序列の中で勝つことじゃない。序列でしか物事や自分を見れなくなったことで苦しんでいる人がいたとしたら、その人に誰かになろうとして自分を蔑ろにしてしまっていないか振り返れる問いを投げかけること。

 

書いた後に、結局自分のエゴだなと思う。自分が言いたいから言ってるだけであって、ここでもやっぱり理解してほしいんだなと、業の深さにびっくりすると同時に、裸ん坊のまま飛び込んでいくよりも、どうしたら戦えるかを工夫した方が知性のある戦い方なのではないか、と尊敬する人が言っていたこと思い出した。

 

石井ゆかり先生曰く、全ての星座の人にとって3月はすごい星回りだ、と。

劇的に新しいことが起こるというよりも、過去からグラデーションとなって揺るがしにかかってくるような、そんな流れがきているみたい、うまく説明できないけど。でもなんかしら大きな変化が起こる予感がしている。

 

サンガツ。春の予感がそこまで来てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が人間に求めるもの

自分の感情と向き合うには、日常生活には気を紛らわすものが多すぎる。

 

昨年末にモデルの事務所に所属して、何回かオーディションに落ちた後、特に手応えがあったわけじゃない大手企業のCMのオーディションに合格して出れることになった。

 

昨日今日とはじめてCMの撮影に行ってきたのだけど、新しい物事や文化、人に出会い、その中でよく知る感情にも出会い、という刺激の中で私の中にはその時々自分の中で何が起きていたのかじっくり向き合いたい欲求が生まれていた。

 

と同時に自分に向き合うことに必要な集中力のスイッチを入れることを先延ばしにしたりする。

朝5時に起きて14時に帰宅してから、昼寝したりなんやらかんやらで日付が変わって今に至る。

 

考えずにいられないのは内省資質だからなんだと思うのだけど、思った以上に生活の端々にその資質が良くも悪くも出ていることに、ふとシャンプーをしながら気付いた。

 

思った以上に、おしゃべりが苦手だ。

私をよく知る人はそんなことないように見えるかもしれないけれど、自分の中である程度考えて言語化できている感情や考えはそれなりに説明できる。

結果だからだ。それは、相手とのや対話の中で出てきたわけではないことが多い。

だから、お喋りしても、お喋り自体を楽しむことが出来ない。そこに発見はないわけだから。

 

会話に発見や気付きを求めるのは知的好奇心的とかそんな高邁なものではなく、ただ単に自分のことばかりに興味があるからなんだろう。

 

そこで気付いた。苦手なのは、対話ではなく考えないおしゃべりだ。

相手の言ったことを聞いて、その場で返答をする。

この時、私は相手の言ったことを噛み砕いて理解しようとするプロセスの中で、あー、とか、うーん、とかそっかぁー、とかしか出てこない。

 

反射的に、考えないで言葉を出すことも多分まるで出来ないわけじゃない。その代わり、いかに軽はずみなことを言わないようにするか、つまり相手を不快にさせないようにするかということを考えて返答するので基本的にはそうですよねぇとかそういうことありますよねぇとかっていう共感で終始することが多く、結果関係が深まらないってことがよくある。

 

多分、おしゃべりを楽しむ人たちはそんなこと考えていない。そこで起きる化学反応を楽しんでいるだけだ。

 

複数人でのお喋りに興味がまるで湧かないのは、その内容から気付きや発見を得ることが出来ないからというのと、ほとんどのお喋りは意味をなさないものだからだと思う。

 

複数人がテーマに沿って語る形式や、お互いのことを話す1対1の対話を好むのは、それをすることによって自分にない発想や考え方を知ることができるからだったのか。

それは、お互いに興味があることが前提となるし、同じ方向ないしは、互いを見ている。

 

わたしは誰かがわたしに興味を持ってくれたとわかれば嬉しい。語り合いたいと思う。

 

その興味の対象は、それぞれがどんな人間であり、日々何を見てどう感じているのかということだ。

 

新しい知識を得ることや学問が好きなのも、世界をどう見るかの手段だからなのかもしれない。

逆に言えばそれ以外のことには、興味がわかない。

 

何があったか、誰がどうしたか、そんなことはどうでもいい。わたしが聞きたいのは、あなたがそれを見てどう感じたかということだ。

 

そういうことを、話したがらない人もいる。

聞かれなくても上手に切り出す人もいれば、

それをモノやサービスやあらゆるものに形を変えて表現する人もいる。

 

だけど、相手のことをきいても、かわされてしまう感覚がある時もある。

そういう時、相手はかわしている自覚があるのかもしれないし、ないのかもしれない。

話したくないのかもしれないし、そもそもそんなことに興味はないのかもしれない。

どちらにしろ、その時点で、その人との通信手段を失ってしまったような気持ちになる。

 

わたしの最近の悩みはそれだ。人と繋がりたい、だけど人と繋がることが難しく感じる。

寂しく感じる時もある。でも、中身のない会話が宙に飛び交う空間にいるのはその100倍寂しい。

雑談が得意になりたいわけじゃない。だけど、私は私を理解してくれている、と思える存在が出来るだけ多くいて欲しいと感じているのだと思う。

 

きっと誰かとのお喋りで消化できていたら私はそもそも書いていないし、それを公開したりもしていない。公開するのは、誰かの心に触れて、繋がれることがあったらいいなと思うからだ。

 

言葉が不要なこと、それは音楽であり、アートであり、踊ることでもあるかもしれない。スポーツであり、セックスかもしれない。根底にあるのは、誰とも分かり合えない孤独を持つ人間が、それでも誰かとの繋がりを求めるゆえの営みとして作り出したものなんじゃないか。

 

物事は繋がってるからか最近歌を習い始めたのだけど、これがすこぶる楽しくて楽しくて仕方がないのも、そういう理由からだと思う。行き場のない根本的な寂しさを、音に乗せて飛ばしていくんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を逸らしていた感情

ここ最近、悩んでそうな人と触れ合う時、共通しているように思うことがある。

それは何かということはまた別で書くとして、あまりに浮き出て見える。わたしがわざと探そうとしてる可能性もあるのかもしれないし、自分の中にあるものが相手に投影されているだけかもしれない。

 

もし探しだそうとしているとしたらなぜ?

考えられるのは、相手にそれがあった方が都合が良いからだ。つまり、相手にそれがあることで自分の存在理由を見つけようとしているということ?

やっぱり、どこかで役に立って、自分の価値を実感できるタイミングを探しているのかもしれない。

相手を見ることで自分を見なくて良いというのはあるかもしれない。見たくない自分って何だ?本当はわかっているような気もする。

 

これからどうにかなるだろうという自分と、

こんなに甘えてるだめな自分、という自己評価。

 

生活費も満足に食べ自分で払えないくせに、楽しいことだけは一丁前にやるのか。という自分への声。

 

モデルになると決めたけど、結果が出るかどうかは自分次第なんだぞ。出来ることは全てやった上でだめだった、と言えよ。という、だめだったを前提にした思考。

 

口では未来のことはわからないと言っておきながら、どうせいつも私は努力出来ないし、前職でも目覚ましい結果なんて出せなかったし、きっと無理だ、という諦めの感情。わたしなんかという思い。

 

その自分を、そうやって出来ない理由ばかり連ねる。。と情けなく思う自分。

 

全体的に自分を責め、また信用していない。そういう感情を見ないふりしていた気がする。

だから、目の前の人が感情と向き合っていないこと

にいらついたのかもしれない。

 

モデル事務所に縁あって入ったけど、モデルが向いてるかはわからないし、と不安を見ぬふりしていた。きっと売れない、この歳になってそんな無謀な挑戦恥ずかしい、という虚栄心。

 

もちろん、ネガティブな感情ばかりではない。

モデルだけじゃなくて色々な可能性を追求して行きたいのも、未来のことはわからないから、コントロールしようとしてもあまり意味がない、という感覚も嘘じゃない。

 

でも、コントロールできないものだけで人生流されていくままというのも、少し違う気がする。

自分の感じたことを大切にすることは、なにかが偶然に起こってくれることを期待して、たらたら過ごしててもオッケーって、という具合につごうの良い解釈をしたらいいわけじゃないんだろうな。

 

 

自分の苦じゃないことや、有りたい姿に向けて、そういうふりをすることをコツコツとやっていければよいんじゃないか。

いやになったら、辞めれば良いのだしね。

 

不安を消すためではなくて、わくわくのために。

やっぱりなんかのコミュニティに所属したいような気がするなぁ。そういう前向きな想いを共有出来るような。