ヨメニカ

ヨメハン=余命半年だったらどうする?のイベントから4ヶ月。

 

残された時間は60日になった。

もちろん常にそれが頭にあるわけじゃないけど、ふと頭に浮かぶ、余命半年だったらこの選択をするか?という質問は、それは恐れや不安を埋めるための選択で、本当に望んでいるものではないのでは?と自分に聞いてみるための、とても重要なキーワードになってくれた。

恐れや不安を埋めるための選択はいけないのか?と改めて自分に問うてみても、やっぱり、空いている隙間を恐れや不安を避けるもので埋めたら、本来入ってくるものが弾かれてしまうから、結果望んでいた通りにならない気がする。

 

会社を辞めると決める。

モデルを名乗ることを決める。

彼と一緒に住むと決める。

 

全部、主体的に決めたか結果であって、もしヨメハンの問いがなければ、絶対、今はない。

 

当たり前の、今の選択が未来を作るという感覚。

未来のことを考えず、今に集中する、ということが結果望んだ未来を引き寄せるという謎。

まぁ、どう転がっても、結局はそうなるべきだったからそうなるのだと信じているんだけど。

 

今日は、歌のレッスンにいってきたんですが、

もう先生が、最高で。この人と出会うために今までボイトレに行きたいと思いながら伸ばし伸ばしにしていたんだな、と思うくらいに、楽しかったし、嬉しかったし、感動したし、興奮した。。。

 

だって、思う存分表現していいんだもん。

それって、最高だった。

自分という楽器を鳴らすこと。

声が体を離れて飛んでいくこと。

歌うように生きたい、生きるように歌いたい。

特別な才能を持つ人だけに許されたことではなく、

ただ歌いたいと思う、それが最善のタイミングだったのだなぁ。

モデルの業界に飛び込んでみなければ、表現について考えなかったし、演技についても考えなかったし、歌おうとも思わなかったから、すべては繋がってて、売れなくても、下手なままでも、それでも楽しいからやる、目的なんていらない、その素晴らしさを、いま、こころから感じている。。。

 

これ以上幸せなことってないと思う。

 

まぁ、来週のスケジュールは真っ白。

真っ白なことに善悪はない。

考えないで済む為に埋めるよりも、飛び込んでくるものに扉をあけていたい。

 

とはいえ、なぁにしよっかなぁ

だらだらしちゃう可能性もあるし

それはそれでいいんだけど

旧来の自分の価値観もまだあって

無駄に時間を浪費しちゃいけんとか

何かすること考えなきゃとか

まだまだある。

けれど、あと60日だからなぁ

ここで昔の自分に戻ってもねぇ

どうしようかなぁ

みんな5日あったら何したいんだろ

みんながしたいこと代わりにしてあげようかな

誰か何か面白いもの持ってきてくれないかなぁー笑

 

他力本願になれた自分が好きすぎてたまらん。笑

なんかインスピレーションが降りてきてくれるのを気長に待とーっと。

 

 

おやすみなさい せかい♬

 

 

 

 

他人と生きるということ

わかってもらえない。受け止めてもらえないと感じたことのある人はどれくらいいるんだろう。

 

誰かと会って、相手にわかってもらえない、わかろうとしてもらえないと感じたその時、相手もまた同じことを思っていることは、結構多いんだと思う。

 

理解されたいというのは人間の根本的欲求で、ネットでググると承認欲求にカテゴライズされるみたい。承認欲求。認めてほしいという想い。

 

それらを外に求めるのは、自分が自分を理解する、認めることが出来ていないからであり、結局は自己肯定、いわゆる自分のどんな思考や感情もそのままに受け入れることなのかもしれない。

 

となると、理解してほしい!という欲求もまた悪いものではなく、健全な欲求であるということだ。

そして、外に求めても満たされにくい欲求でもあると思う。数字や地位といった記号的な承認もまた、その特徴として永遠に他者との比較が続くということでもあるし、それはあくまで記号に対してであって、本質的な自分自身じゃないからだ。

 

自分以外の人々が、他者を認めてあげたくて仕方ないなら別だ。供給が需要を上回ってたら、もっとかんたんに手に入れられるはずだ。

 

でも、そうじゃない。みんな認めてほしいし、大切にされたいし、無条件で肯定してほしい。

 

自分で認めることが出来て、あるいは親密な関係の誰かから認めてもらえる状況があってはじめて、私たちの耳には誰かの認めてほしい、が届くのだと思う。そして認められてる実感があってはじめて、他者を認めることが出来るのだと思う。

 

シンプルに認めてほしいんです!って言えれば楽だけど、そんなに素直になれたら誰も苦労しない。

 

たくさんの人が、自分で自分を認めることが出来ないが故に、外にそれを求めているのかもしれない。

 

ただ、他者に期待するということは、思い通りにならなかったときに傷付くことでもある。

相手にこう言ってほしいと思っているのに期待した言葉が出なかった時、裏切られた気持ちになる。

自分の意思で好きでやっているはずなのに、気付いたらそんな被害者意識が顔を出す。

 

無意識の自己犠牲から、それはいつも始まると思う。

 

こんなことをわかったように書きながらも、わたしの中にも認めてほしい!なんでわかってくれないの!と叫ぶひーちゃんがいて、今日は数十年ぶりにそれが爆発した。

 

本当に驚いた。だって、爆発するということは、ためにためた感情がいたということだから。

 

いろいろな感情に気付くことができるようになったと思っていたけど、まだまだ無意識に押し込めていた感情はあったみたい。

そして今回吹き出したのは、年季の入った、むかーーしからのものだった。

 

小中学校時代の経験を通して、感情的になることに対してとても抵抗があったし、すごく自制心を持って律してきたつもり。

 

その私が、目の前にいる人に、声が震えるくらい怒って、大きな声で泣いて、

 

なんでいつもわたしばっかり鈍感な人間に振り回されるんだ!!!!!

 

いい加減にしろ!!!!

 

自分の事以外の人のこと少しは考えろ!!!

 

って。。

 

止まらない涙をぬぐいながら、どこか冷静に、

あー、このわたしが感情的になれたんだなぁとか、

ずっといい子 頼れる子であろうとしていたんだなぁ

頼まれたわけじゃないけど、そうせざるを得ない環境にずっと置かれてきたなぁってことを考えていた。

 そうして帰ってきた反応は、相手の反省と変化だったのだ。

 

ずっと、ネガティブな感情は相手にぶつけてはいけないと思っていた。

嫌な気持ちにさせるだけだと。

そんな人間は愛されないぞ、と。

 

頭では人同士 生身でぶつかり合うことで相互に影響が出るのはわかっていたし、それ自体にいいもわるいもないとわかっていたけど

 

心の底から、どんな結果を得たいか、とか相手がどう思うかってことを考えずにただそのままの感情をぶつけるということは、記憶がある中では初めてだった。

 

最近、仕事を通じて頭ではなく心と体を使う練習が多くなったことも要因の1つだと思うけど、

今まで、自分の中で勝手に結論づけて黙ることで衝突をさけてきた自分が、考えずに人にぶつかることが出来たのは、とてもとても大きな進歩だったと思う。

 

人は、相手がどう思っているか、言われて初めて気付く、鈍感な生き物だ。それどころか、言われなければ勝手にこうだろうという誤解すらする。

 

私たちはテレパシーが出来ない。

だから言葉を使う。

言葉それ自体に善悪はない。

だけど、使う人間によって同じ言葉でも定義やイメージが違ったりして、よく誤解が生まれる。

同じ言葉でも言う人、タイミングによって、全く違う意味を持つ。

 

意思疎通というのは、とても、とても難しい。

多くの人が人間関係に悩む所以はそれだと言えるし、逆に人には伝わらない、という前提にたって言葉を使う人こそ、意思疎通がしやすいのだと思う。

 

 

非言語が得意な人は、言語が苦手故に表情や仕草を読み取る機能が伸びたのかもしれない。

 

芸に精通してる人は、言葉ではないコミュニケーション方法を選んだのかもしれない。

 

本やラジオだって、何かのプロがそれを伝える道具として本を出した場合、言葉の扱いは素人かもしれないし、

 

逆に文豪、作家、編集者のひとたちというのは、言葉を使って何かを伝えるプロだということだ。

 

話が随分とそれてしまったけれど、

大事なのは、

 

人はみんな違う言語で話しているからわかりあえないこと

 

人と付き合うためにはまず自分とうまく付き合うこと

 

このふたつが前提にあり

 

故に相手が察することを期待した曖昧な態度や言葉は汲み取られないことの方が多い

 

ともすれば、無駄にがっかりするよりも、

はっきりと自分の感情や意志を自覚し、責任を持って伝える

 

時には感情的になり衝突したとしても、それが他人と生きていく、つまり社会でという上での個人の責任なのではないかと思う

 

要は我慢してても自分が辛いだけだし、なんなら相手から気付くチャンスを奪っている可能性もあるということ。

衝突は悪いことではなかったのだなぁ。

衝突なくして、理解なし。笑

 

自己主張の能力は、鍛えられる。

このちからがついたとき、自ずと嫌いなこと好きなことを人に理解が得やすくなるし、

結果好きな人やことが近くにある状態をつくれるっていう。

 

今日の感情は大切なことに気付かせてくれたなぁ。

感謝だなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母になる事への不安

お風呂につかっていたら、唐突に思いついたことがあるので記録しておく。

漠然と、母親になる事への不安がある。その不安がなんなのかということを考えて見た。不快になる人もいるかもしれないが、あくまでわたしの場合なので、と前置きしておく。

 

出産ラッシュだ。

次々と友人に子どもが生まれていく。

子どもが生まれると、産んだ母親に対して、みんなお疲れ様、おめでとうと声をかける。

 

おめでとうという言葉は、何に対しての賛辞なのか、考え込んでしまう。

愛する人の子を産んだ事だろうか。それとも、女性として備わった機能の役割を無事果たせたことだろうか。お腹に子どもがいる時から、自分とともに育まれてきた命と対面できたことだろうか。命そのものに対する祝福か。そのどれもなのだと思う。

 

きっと出来たら死ぬほど大切にするのだと思う。

全力で守りたいと思うのだと思う。なのに、この産む、という決断に際してのハードルの高さはなんなんだろう。

 

 

わたしは、子どもを生む事を、怖いと思う。同時に、出来ないかもしれないと思う。

子どもが出来なかった女性はわたしの周りにたくさんいる。

常に出来ないかもしれない、と頭で思いながら、出来た時の事も考えている。

体内で子どもが育つということに関して、自分が今まで体に溜めてきた毒を一手に引き受けてしまうのではないかという恐怖がある。

アトピーのあの苦しみや喘息のあの苦しみは味あわせたくない。

必ず遺伝するわけではないけれど、その可能性はかなり高い。

果たして健康な子が生まれるのだろうか。

 

それ以上に、子どもが母親の影響を多いに受けて育つ生き物である事を、怖く思っている。女は、子どもを産むと、母になる。

子どもを育てるのは、人生の一大プロジェクトだ。責任は重い。

だけどその割に参入障壁はとても低くて、母親になる条件は生殖機能が付いている事だけだ。

 

母になった瞬間に、生きがいを見つけたようになる女性は多い。

すごく嫌な言い方をすると、子どもを自分の人生の楽しみに無意識にすり替えているように見える女性も多い。その無自覚さに、とても不安を覚える。

母親の影響を強く受けて育つのに、自身が自身の無自覚さを自覚していなくていいのか?と。

子どもの話題で無邪気に盛り上がる女性を見て、その無邪気さや無自覚さが将来子どもを不幸にするかもしれないのだと、勝手な心配を覚える。余計のお世話だ。

 

母親同士のコミュニティを批判しているわけじゃない。その苦労や孤独は責任の重さと比例し、共感できる人同士の貴重さは計り知れず、共感できる人物はものすごく貴重だ。

 

言葉を選ばずにいうと、一人の人間としてのベースができていない人間が、人間を育てることがあって良いのだろうか、と考えてしまう。

 

ここまで書いていて、多くの人は考えすぎだというのだろうと思う。

というか、では、どういう人が一人の人間としてベースが出来ているというのだろうか。

情緒が安定している事か。経済的に自立している事か。自己実現をしている事か。

自分に不足しているものを子どもに背負わせないためには、自分に不足がない、あるいは不足と思える事をやりきった、と言えるレベルまで経験している事か。

 

そして、わたし自身、考えたからといって結果わたしに(子どもが出来たとしたら)子どもが幸せになる子育てができるとは限らない。というか、天真爛漫なお母さんの元で育った子どもの方が全然幸せになりそうだ。

こんな理屈をこねくり回す母親の元で育つ子どもは一体どんな影響を受けるんだろう。恐ろしい。

 

多分、わたしの母、という人物像に対しての理想の高さが要因にあるんだと思う。

そもそも、成熟していなければ母親になってはいけないのか。

完璧な母親はいない。だけど、なぜあなたは子どもを産んでしまったのだ、というケースは、ニュースを見ても、そして前職の現場でも見てきた。

 

そもそも、その成熟が最高に達する時、当然女性の生殖機能はすでに役割を終えている。

 

母親も子どもとともに成長していければ良いと、言われる。そうだと思う。だけど、それは子育てに関する技術やマインド、あるあるアクシデントに対しての習熟度に関しての話で、母親自身の価値観や根本的な人間性に関することではない気がする。(療育の世界では、発達障害のあるお子さんを持った両親のための教育プログラム、ペアレントレーニングなるものがある。その中で価値観を根本から揺るがされることもあると思う、が、あくまでそれは子どもがマイノリティな要素を持って生まれたことで、今までの当たり前が覆されたからであって、世の中のマジョリティの親に当たる人たちに子育ての中で価値観が揺るがされることは起こりにくい)

 

家族が欲しかったから、子どもを作った。そうやって脈々と子孫繁栄を続けていくのが世の常だ。別に考えなくていいならそれが幸せなのだろうと思う。

 

産む、産まないの選択肢が出来たからか。母親のモデルが多様になったからか。

近くで母親が子育てをしているのを、ずっと見てきた末っ子だからか。

そしてそれは幸せなことだけではなく、死ぬまで責任を抱えなくてはいけない事であると自分で見てきたからか。子育てに対して、あの時もっとこうしてあげればよかった(のに自分の余裕がなくて出来なかった)と後悔を残している母親を見ていて、してもらったことの方が大部分なのだから、そんなに自分を責めなくても良いのに、とも思う。だけど、兄弟を見ていて、適切なケアが出来ていれば結果は違かったのかもしれない、とも思う。

 

起こった事をいっても仕方ないのだけれど、たぶんそれを繰り替えさないようにという強い自制心が働いている気がする。そもそもそういう自己批判的な部分に見事に影響をうけ、この思考が出来ているのだと感じる。わたしの子どもも、自己批判的なこどもに育つのだろうか。こわいぞ。

 

書いていて、結局子どもも一人の人間であり、一人の人間と対峙できる母親になりたいと思っているのかもしれない。無意識に相手に期待したり、自分と相手の境界線が引けずに自分の問題を子どもに投影したりする母親にはなりたくないと思う。ふと自分の母親を思い返して、そういったところがまるでない母親だったと感じる。一方で、子育てというのは時境界線を超えてでも、親が子どもを守らなくてはいけない時がある。

相手の意思を尊重しすぎるのも考えものだ。

 

ここまでつらつら書いてきて思うのは、自分の世界を持っていたい。子育てとは別に。ということ。

わたしはたぶん子どもを産み育てる過程の中で、他の母親がとるに足らないと笑うことに悩みすぎるような気がする。あまつさえ子どもに遠慮し、言いたい事や感情をぶつけることを避ける母親になるリスクが高い。

これはもう一定性格だから仕方ない。だからこそ、その世界観だけに浸からないように、そして自分の性格を理解した上で偏らないよう、意識的でいたいと思う。

 

 

人生には何があるかわからない。考えるのもいいけど、楽しむことが出来なければあまり意味がない。

 

 

そして、書きながら、父親になる参入障壁の低さも同じだなと思った。同様に父親になることにあたっても、自己理解は必須だと思った。無意識に子育てのメインの責任があるように感じているのはわたしの思い込みだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこからが余計なお世話か

かなりご無沙汰になった。

 

ライティングゼミという、10月から通っていた社会人スクール的なのが終わったからか、書いているうちにそこまで書くことに没頭できないことに気付いからなのか、

やや書く事を離れ 本を読む事ばかりなどしていた。

 

書くことはそれなりに集中する力がいるし、更に上手な文章を書く人たちは自分が書いた文章を批判的に見直してブラッシュアップするという作業をするから、

雑記や日記的に文章を書いておきたい人と 人に見てもらうための文章を書く人との違いを理解した上で、その作業自体までは楽しみきれなかった気がした。

 

最近はそこまでして伝えたいことってあったっけ?と思うようになった。

人に進める事と押し付けることは違うけど、

私は自分自身に足りていないと思う事を人に押し付ける傾向が強かったような気がして、例えばその人が楽に生きるために、とか

もちろん困っている人に対して自分の知っていることや経験を通して伝えられる事があったら伝えたいとは思うけど、それを使命としていくのは自分が人生楽しみきれていないことへのすり替えなんじゃないかと思うようになった。

 

その証拠なのか、楽しみきれていない人の近くにいると 今まで力になりたいと思っていたけど、最近は付き合っている時間 停滞したエネルギーを受け取るような気がして

自分のできる範囲以上のことはやらず その方が結果良い距離感ができるという。

うだうだ相談に乗っても結局解決しない事の方が多いし、

そもそも解決したいと思っている人自体そんなに多くないような気がしてきた。

 

11月にモデルの事務所に所属してから、12月、1月はなかなか動きがなかったけど、

先日初めてオーディションに参加してきた。

 

事務所の先輩の悩みや教えられる事を聞いていると、どこの業界も悩んでいることはあまり変わらないなと思った。

どうしたら売れるか。競合だらけの、顔面偏差値が高くて、多少の芸ができることが前提にある基準を超えてどう差別化を測っていくかということ。

 

よほど力のある事務所に所属していない限り、俳優やモデルなんかは個人事業主として個人で生き抜いていく力が必要になる。

そこらへんは会社員よりもシビアな世界かもしれない。

だけど、会社員にしても芸能にしても、その先は保証されていないことに関して大した差はない。よっぽどの大企業なら別なのかもしれないけど。

 

個人の時代においてどうやって生き延びていくかって戦略を持てということと、そのためのマーケティングの視点を持て、ということに集約される気がする。

それはその職業を続けるにしろ、別の仕事に変えるにしろ、同じことな気がする。

 

同時に、そういう考え方に対して、ありとあらゆるところで声高に叫ばれてるから、無意識に自分らしく生きなきゃいけないと刷り込まれているけど。

 

自分らしさなんて、自分らしさを意識しなくなった時に傍目にふとうつる事の方が多いんじゃないかと思うし、あんまりそれに囚われると足元にあるものを見逃すんだろうなぁと思う。

 

意図した通りに生きるなんて無理だ。コントロールできないことの方が溢れてるのだから。

 

最近は演劇のワークショップとかに参加している。

表現することは面白いけど、その表現手段に没頭できるかどうかということが大切な気がする。もっと知りたい、もっと上手にできるようになりたいと思えるかどうかも。

 

来週は歌のトレーニングに行ってみる。

昨年初めの占いを聞き返していたら言われていたことがほぼ当たってて、

しばらくはいろんなことを試してみる日々が続きそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己表現としての「書く」ことについて

あなたはここにいるのに、ここにいない。

体はあるのに、声も聞けるのに、確かに、あなた自身はそこにいない感覚というものがある。

 

例えば、二人で食事をしている。メッセージでやりとりをしている。第三者を含んでテーブルを囲んでいる。そんな時、人は自分自身について話すことや、相手について質問をしたりというコミュニケーションが発生する。

当たり前のようなことだが、コミュニケーションとはこちらが投げた球を相手が受け取り、それに対して感じた球を投げ返し、また相手から球が帰ってくる……といったキャッチボールだ。何気なく投げる球か、握りしめていた球を勇気を持ってぶん投げるのかは、私と相手の関係性や、状況によって異なる。

 

そういったコミュニケーションの場面の中で、

話題には事欠かないのだが、それに対するその人の感情や意見は聞けないので、話は平行線を辿り、次の話題から次の話題へと移り、永遠に深まることはない、と言った現象に出会う。その人が話しているようで、話していることは誰かが言ったことや、取り繕うように出てきた、意味を持たない言葉の羅列だったりするので、私は「あなたはここにいるのに、生身のあなたは、ここにいない」と感じるのだ。

 

そんな時、私はとても悲しくなる。なぜなら、私はここにいるのに、あなたはそこにいないから、まるで一人で話し続けているような寂しい気持ちになるのだ。

 

人に見せる見せないは別として、自分の感じたことを書いてみよう、と思い立ったのは、言葉を紡げる人への憧れと、一方で津波のように押し寄せる自分の想いや感覚に翻弄されることが度々あり、その処理にどうしようもなく困ったことがきっかけだった。

 

はじめは、ただ感じたことの羅列だった。吐き出して一時的にすっきりはしても、新しい発見はない。その日あったコミュニケーションを思い出すし、その場で表現できなかった想いを書き連ねていく内に、自分自身がどのように感じていたのか、感情の語彙力が必要なことに気付いた。

 

イラついた。焦燥感を感じた。不安だった。寂しかった。もどかしかった。情けなかった。罪悪感を感じた。

そうして感情のレパートリーを増やすと、自分の中に問いが生まれていく。

「なぜあの時怒りを感じたのか。何が私をあんなにも動揺させたのか。」

そうして自身の想いを紐解く内に、激しい感情に襲われた時にもそれに翻弄されることなく、自分の中でまず考えてみること、どうしてそう感じたのかと問うてみることを覚えていった。

 

そうしている内に、自分が考えたことを外に出してみたいと思うようになった。

他人から見た私という人間に対する情報は少なく、誰かにこの想いを理解してほしいと思っても、口でうまく説明ができなければそれは伝わらない。

書くことで私という人間の想いが文章に乗って誰かに届き理解を得られた時、私は初めて、自分自身が表現することによって人と繋がり、理解されたことを通して、自分を理解するようになった。

 

仕事がうまくいかない、未来が見えない、身近な人との関係がうまく行かない。何よりどうしてこんなにも苦しいのか、そんな想いに向き合おうと決める時、とてつもないエネルギーを使い、残酷な現実と向き合う。

 

苦しい日々の中で更にそんな苦しいことをするよりも、その現実を見ないようにする手段は世の中に溢れている。動画、SNS、漫画、小説。コンテンツは時に人を救い、勇気を与える一方で、現実から逃避するための手段として消費される。それ自体に良い、悪いはないように思う。

 

ただ、そうして現実の問題から目を背けながらも、私たちは現実を生きなければならない。使いすぎた月のカードの請求金額を見るのが怖いように、気まずい相手との衝突を避け続けるように、怖いことを先延ばしにして、自分の想いに蓋をして、不安と共に今を生きる。

 

大多数の人が、表現することを教えられて育ってきていないように思う。

幼少期から表現することに肯定的な環境にいて、大人になって無意識にそれをしている人、幼少期から言葉以外の表現手段を持てた人は、表現に慣れている。

しかし、幼少期に感情に蓋をせざるを得ない環境にいた人は、自身の想いを表現することをどうやって良いのかがわからないのだ。

何かを表現することは、センスがなければいけないだとか、人に見せれるものでなければいけないと思い込んでいる人もいる。そうではない。表現は人のためではない。自分のためにするのだ。自分との人間関係が築けていない時に、他者との人間関係が築けるのだろうか。

 

自分の想いを表現することを避け続けると、その周りには同じように避け続ける人が集まる。その方が互いに楽だからだ。けれど、そこには誰もいない。

 私はあなたにここにいてほしい、と思う。

 

あなたの想いを聞かせてほしい。どんなに下手くそでも良いから、私とあなたがここにいることを実感したい、と強く願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

世界一周、初めて降り立つ国、タイ

2011年の春、私は、タイ・バンコクにあるチャイナタウン・ヤワラートにあるホテルの高層階で地球の歩き方に埋もれながら泣いていた。

怖くて、部屋から出れないのである。

 

タイの主要空港であるスワンナプーム空港に降り立ったのは1日前。

日本人専用のツアーのバスに揺られて、このホテルにたどり着いてから、この部屋を出ていない。食事もしていないので、空腹もそろそろ限界だ。

 

何が悲しくて、はるばるタイまで来てホテルの中で泣いてるかって?

怖かったのだ。タイの雑多な雰囲気が、見慣れぬ景色の全てが。

エレベーターを降りたら殺されるのではないかという気すらしていた。

 

 

当時、どうしても就職活動をする気になれなかった私は、

当時どハマりしていた「地球に恋して」という世界一周を綴った旅ブログに大いに影響されて、大学を1年休講して自分も世界一周という名の下に、「ここにはない何か」を見つけにいく旅に出た。

成田空港で買った、旅人読本の定番である深夜特急を買って。

 

そうして第1カ国目をタイに決めてから格安旅行ツアー会社でホテル付きのツアーを申し込んで、復路の便をキャンセルして次の国、ラオスに向かう予定だった。

 

だが、旅に出て早々これである。

そもそも海外にはツアーで1カ国しか行ったことのなかった私が、

カオスを絵に描いたような東南アジアに降りたつのは、刺激が強すぎた。

というか、孤独だ。せめて、この恐怖感を共有して、「一緒に行こう」と行ってくれる友人さえいれば……と思うのだが、もちろんそんな人はいない。正真正銘一人だ。

 

そもそも世界一周に行こうなんて人は、好奇心と行動力の塊で、社交的なタイプがほとんどである。内気で不安が強いタイプの人間が同じことをしようとするとこうなるんだな、なんて思いながら、外にでるタイミングを伺って、何度も挫折する。

 

2泊3日のツアーの帰国予定の前日夕方。部屋のドアノブに手をかける。廊下には誰もいなかった。部屋を出てしまえば後は進むだけで、以外にも呆気なく外に出る。

派手なネオン、飛び交う異国の言葉、無数のバイクとトゥクトゥク

 

ここはチャイナタウンだ。なんだか、少しだけ横浜中華街に似ていた。

お腹が空きすぎていた私はドキドキしながら一番はじめに目についたバイクタクシーに乗って、市場を目指してもらう。ボラれるのではないかと怯える私を尻目に、バイクタクシーはスイスイと市場を目指していく。

 

景色が流れる。3人乗りのバイクに何台かすれ違う。外はもう暗くなり始めている。異国にいるのだ、と生暖かい風の匂いを嗅ぎながら思う。

 

到着した市場はこじんまりとしていたが、現地の人で溢れていた。

やる気のない店員が手作り感溢れる日本の電化製品のメーカー名が書かれた謎の家電や、スポーツメーカーのロゴが入った偽物と思しき鞄やスニーカーを置く屋台の中で携帯をいじっている。

散々迷って辿りついたタイ風ラーメンの屋台は、現地の人もちらほら食べていて、私も恐る恐る古くなったプラスチックの椅子に座る。

出てきたラーメンを啜る。あぁよかった。ちゃんと美味しい。

どんな味がするかわからない調味料をいれてみる。食べたことのない味がする。

ただご飯を注文して食べれたことが、こんなに嬉しいとは、何事か。

 

外に出れた達成感とお腹が満たされた満足感を感じながら、街を歩く。

少しの勇気を出した私の初めての街歩きは、無事終了した。

 

翌朝、ホテルの前には大型のバスが止まり、お土産を抱えた日本人観光客の人々が続々とバスに乗り込んでいく。私はここでさようならだ。そう思いながら、日本語を話すタイ人の添乗員の男の人に言い出すタイミングを見計らう。

 

忙しそうで、なかなか言い出せない。

第一、ここで私は帰りませんなんて言ったら、変な注目を浴びてしまう。

そうこうしているうちにバスは定刻通り出発する。

もちろん私はしっかり乗ってしまっている。

流れる景色を不安な気持ちで見つめる。

ひょっとしたら私、日本に帰ってしまうんじゃないか。

だって、ツアー客が帰らないなんて、前代未聞じゃないか?

そうこうしている間にバスはあっという間にスワンナプーム空港に到着してしまった。

 

どうしよう。タイミングがない。搭乗手続きの列に並んでしまった。乗るつもりもないのに。チェックインカウンターが目前に迫ってきて、ようやく私は意を決して、列を抜け添乗員さんに告げる。「私、飛行機、乗りません。これから、世界一周、行く」

伝えながら、同時にあぁ、私は世界一周に行くのだ、と、その時になって実感が広がった。

 

添乗員さんは初めてのことだったのだろう、困惑の表情でツアー会社に電話して確認を取っている。不安な気持ちで待つ。

電話切った彼は、タイの一人の青年の顔で、「オッケー! 気をつけて、行ってらっしゃい」と言ってくれた。

 

彼に別れを告げて空港の到着ロビーに戻る。これからどうするかは決めていない。

十数キロある荷物が重い。反対に私の気持ちは軽やかだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あけましておめでとうございます

世間が休んでいると思うと安心してだらけることができるのは不思議だなぁ〜。

 

普段からだらけてるんだけど、やっぱりみんなの生活も見えるから無意識に比較しちゃってるんだと思う。年末から年明けにかけてのおこもり準備の雰囲気が好きです。

 

紅白に興奮しつつ、初日の出は雲に隠れつつ、誰もいない地元のお寺で初詣をした。

話題のスポット文喫に行って彼とストレングスファインダーを元に未来会議をしたのが昨日。文喫は六本木の青山ブックス?の跡地にできた有料入場制の書店なのだけど、

1500円払えば時間無制限でナイスなチョイスの本を読み放題。

お金を払って来ている人が多いからかみんな読書に集中していてとても静かだし、

靴を脱いで自宅のように過ごす人も多く、とても良い雰囲気だった。また行きたい。

 

①何が自分を殺すのか知る

時間制限のない日々を生きていると、メリハリを失いやすい。人との約束や時間の強制力は少ないので、自分の意思や行動の結果のみで生活が構成されている。

これはとても自由でストレスフリーな一方で、不自由があるからこそ自由を見いだせるというか、規則正しいリズムを作ることが苦手なタイプには結構きついものもある。

 

私はストレングスファインダーの資質1位が適応性なのだけど、適応性の強みとしては、基本的にどんな状況においても冷静に柔軟に対応ができることや、「今」を重視してその瞬間その瞬間を楽しむことが出来る部分が強いの。

一方でその強みが悪い形ででる時は、「変化がない時」にはモチベーションが上がらず、「忙しい時」にはその時間を感じきることができずストレスがたまる、という…丁度良い自分のバランスやリズムを理解していないと環境にとても左右される、という点。

 

つまり、在宅で仕事をしていたり環境変化が少ない状況が続いてもだめだし、外に出ずっぱりで一つ一つの瞬間がおざなりになっている感覚になってもだめってこと。

 

多分、私は人に強く影響を受けることもあり、定期的に自分を刺激してくれるコミュニティを持つことや、複数の人と仕事で短期的に関われること、今を共に楽しめる仲間がいるってことがどうやらとても大切なことらしい。

これは彼に言われて気付いたのだけど、私の周りにはシェアハウスに住んだり年齢に関係なく海外に行ったりする人も多く(=ではないのだろうけど)、「今を生きている感じの人」に囲まれているよねとのこと。確かに、未来の話をしている人よりも今この瞬間を共に共有出来る人を求めている節は強い。逆に、合理的な話や誰の話なのかわからない一般論の話をしているような人はあまり居ない。実際、そういう人が集まる場所にいくと、頭の中がはてなマークで埋め尽くされることが多く、(私にとっては)「この人たち、何が楽しくてこのおしゃべりをしているのだろう?」と疑問によく思って、孤立感を覚えたりするから、近づかないようにしてる。

 

どんな人の近くにいれば、どんな場所に行けば、どんな動き方をすれば自分がイキイキするのかなってことを知るのがすごく大事だと思った。=何が自分を殺すのか知る、ということでもあるなぁ、と。

 

②ストレングスファインダーはどれくらい深く理解しているかで活かし方が変わる

強みを知ったそのあとは、さてどう活かすかとみんな思うのだけど、

強みを知るっていうことの奥深さを感じることがあったので。

 

会社員の時は上位5つの資質だったのだけど、先日34の資質全てを知れる(下位5つの資質に興味があった)方にチャレンジ。

ストレングスファインダーは、34の資質を4つのグループに分けることができて

人間関係構築力と戦略的思考力、実行力、影響力。

どのグループの資質が上位にくるか、下位にくるかで自分の傾向を知れる。

私は上位3つが人間関係構築力、下位ほぼ全てが実行力(!)という面白い結果に。

資質に関する説明をしながら納得は出来るのだけど、いまいち深まらない。

そこで、自分をよく知る人(今回は彼)とお互いの資質を読み上げあって感じたことをゆるく語り合う。新しい発見があったり、自分では当たり前だと思って居た取り組みや思考プロセスが誰にでもあるわけじゃないことに気付いたりする。

 

①の何が自分を殺すかを知る、というのもそこから出てきた着想で、その強み故の失敗体験も振り返ってみる。と、全て表裏一体であることを感じる。

 

強み弱みを知ることで、自分はやっちゃいけない戦い方を知ったり、成功パターンや思考の切り口などを見出すことが出来る。

 

前職で支援職がうまく行って居た理由が資質に由来し、うまく行かなかった局面もまた下位資質を使うような自分にあわない戦い方をしていたことが要因だったり。

最終的に、資質よりも大切なのは想いである、という結論に自分では至ったのだけど笑

そうはいっても、楽しく自分の才能を活かして生きるためには知っておいた方が良いものだなと。

 

 

山羊座は2020年が大爆発の年で、今年はその準備のとしになるみたいなんだ。

だから少しずつ、しなくていい努力や考えなくていい悩みは捨てていこうと思う。

自分のために動いていきたいなと思う元旦でした。

 

まだ出会っていない様々な人、物事に期待しつつ

今周りにいる運命の人たちとの時間を大切にしていきたい次第でした。