目を逸らしていた感情

ここ最近、悩んでそうな人と触れ合う時、共通しているように思うことがある。

それは何かということはまた別で書くとして、あまりに浮き出て見える。わたしがわざと探そうとしてる可能性もあるのかもしれないし、自分の中にあるものが相手に投影されているだけかもしれない。

 

もし探しだそうとしているとしたらなぜ?

考えられるのは、相手にそれがあった方が都合が良いからだ。つまり、相手にそれがあることで自分の存在理由を見つけようとしているということ?

やっぱり、どこかで役に立って、自分の価値を実感できるタイミングを探しているのかもしれない。

相手を見ることで自分を見なくて良いというのはあるかもしれない。見たくない自分って何だ?本当はわかっているような気もする。

 

これからどうにかなるだろうという自分と、

こんなに甘えてるだめな自分、という自己評価。

 

生活費も満足に食べ自分で払えないくせに、楽しいことだけは一丁前にやるのか。という自分への声。

 

モデルになると決めたけど、結果が出るかどうかは自分次第なんだぞ。出来ることは全てやった上でだめだった、と言えよ。という、だめだったを前提にした思考。

 

口では未来のことはわからないと言っておきながら、どうせいつも私は努力出来ないし、前職でも目覚ましい結果なんて出せなかったし、きっと無理だ、という諦めの感情。わたしなんかという思い。

 

その自分を、そうやって出来ない理由ばかり連ねる。。と情けなく思う自分。

 

全体的に自分を責め、また信用していない。そういう感情を見ないふりしていた気がする。

だから、目の前の人が感情と向き合っていないこと

にいらついたのかもしれない。

 

モデル事務所に縁あって入ったけど、モデルが向いてるかはわからないし、と不安を見ぬふりしていた。きっと売れない、この歳になってそんな無謀な挑戦恥ずかしい、という虚栄心。

 

もちろん、ネガティブな感情ばかりではない。

モデルだけじゃなくて色々な可能性を追求して行きたいのも、未来のことはわからないから、コントロールしようとしてもあまり意味がない、という感覚も嘘じゃない。

 

でも、コントロールできないものだけで人生流されていくままというのも、少し違う気がする。

自分の感じたことを大切にすることは、なにかが偶然に起こってくれることを期待して、たらたら過ごしててもオッケーって、という具合につごうの良い解釈をしたらいいわけじゃないんだろうな。

 

 

自分の苦じゃないことや、有りたい姿に向けて、そういうふりをすることをコツコツとやっていければよいんじゃないか。

いやになったら、辞めれば良いのだしね。

 

不安を消すためではなくて、わくわくのために。

やっぱりなんかのコミュニティに所属したいような気がするなぁ。そういう前向きな想いを共有出来るような。