いつの間に「与えなきゃ」と思っていた話

なぜか誰に命令された訳でもないのに、いずれ先生にならなくてはいけないと思っていた。

昔から自分の中の社会的成功のイメージとして人の前で何かを話している人、というものがあった。

それは学校の先生という意味ではなく、もっと広義の、イベントで登壇をしたり、自分の講座やセミナーを持っており、本業が「何かを教える人」ではなくとも私の「先生の定義」に当てはまるのだった。

 

きっかけは通い始めて3ヶ月がたつ歌のセッションをお願いしている講師の呟き。

「私、先生って呼ばれるの嫌いなの〜。だって先を生きてないし。何かを教えようと思ってやってる訳じゃないっていうか、教えられることなんて何もないし。ただ、自分にできることをやっているだけで、それをお金というエネルギーと交換しているだけだから。だから先生って呼ぶのやめて〜〜」

 

なるほどと思ったその後も癖のように相手のお名前ではなく「先生」っていう言葉が出そうになって引っ込める作業が続いた。

 

私の中では相当根深く

先生と生徒

 

この構図を「上下」の概念で解釈していた。

 

いつからか長い間、人に物を教えたり、上に立ったりする人間が優秀で、その人に教えを乞う人が生徒や部下であり、誰でもいつかは人に物を教える側に立つのがゴールであると。

 

いつからそんなことを思い始めたかはわからないけど、なぜかいつも自分の将来のイメージの中の私は人前で何かを話したり伝えたりしていた。そうなりたいと思って来たつもりだった。

何か新しいことを知ればこの知識をどうやって人に伝えるかを、いや、正確には人に教えることで「どう稼ぐか」ばかり考えてきたような気がする。

 

だけど、いかんせん、私は興味の移り変わりが激しく、人に何かを教えられるまで知識を深めることはかなり稀だし、相手のペースに合わせてこちらのやり方を変えていくのも嫌いだ。誰かに知識を伝えることよりも、共に勉強していったり、共に空間や時間を楽しむことの方が断然好きだ。

それに、人に何かを伝える時は完璧であらなきゃ自分を許せないから準備をめちゃくちゃするだろうな。それってすごく疲れそう。批判されたら傷つくんだろうな・・・。

 

そこまで心配ならやらなきゃよくね?笑 と今の自分なら言ってあげたいけど、自分でもなぜこんなに人に教えることができる、ということにこだわっているのかわからない。

 

だけど先日ふと頭に降りて来た「あれ、私はどうしてこんなにも『人に与えなきゃいけない』と思ってるんだっけ?」という素朴な疑問。

 

その裏には「受け取る」ということは下に立つ人間がすることであり、何か教えを乞うということは、相手に自分の負けを認めることと同義である、という思いこみがあった。

 

受け取るという行為より与えるということが高尚である。という思いこみ。笑

そもそも受け取ってくれる人がいなければ与えることって出来ないのに。

 

それに、人生、与えようと思って与えたことよりも、ただ自分がやりたくてやっていたことが結果的に誰かに影響を与え感謝される方が多い。

ピアノでもスポーツでもその知識や技術を夢中になって体得した人が、何かしらのきっかけで結果的に教える立場に立っている。中にはいるだろうが、初めから教える人になろうと思って教えているわけではないことがほとんどなんじゃないか。

 

「教える」という知識を授ける行為に対して思いこみが強かったのは、おそらく私のバックグラウンドにあるんだろうと思う。

教えかたひとつで、教師一人で、生徒の学びが変わる。未来が変わる。

ある意味想いが強すぎて、テキトーに考えられない。

 

そして「教える」ということが目的になり、根本的に何か授けたいもの、あるいは人から教えて欲しいと頼まれるものが手段となっていたことに気付く。

 

「先生」と呼ばれている人の中には、

先生になりたくてなった人もいれば、気付いたら先生と呼ばれている人もいる。

だけど、その先生も誰かの生徒であり、また生徒も誰かの先生である。

 

そう考えると、与える側、受け取るという側に人間を切り離すことは出来ない。

それはそこら中で起きていて、かつ時と場合によっていくらでも入れ替わるからだ。

 

教える側にたったからと言ってそれは自分が高尚な人間であることを意味している訳ではなく、同様に受け取る側に立っているからと言って弱者ということではないということ。

 

有難く感謝して受け取ったものが積み重なっていつのまにか知らない間に誰かに与えているのかもしれない。

 

「こうあらなきゃいけない」という思いこみは、

自分が思い込んでいるということすら忘れさせて自分の中に枠として残る。

今回のように、「教える側にならなきゃいけない」という思いこみは私の行動や発想を制限し、やりたくないことをさもやりたいことのように感じさせ違和感だけを残していく。それに気付くスピードが最近早くなってきた。

 

きちんと覚えておきたい。

感謝して受け取れ。それを受け取る権利が私にはあるし、

受け取ることは相手に与えるということをさせてあげていることでもある。

受け取ることは愚かなことではない。自分が満ちた時、自然と与えることになるのだから。