平成最後の夏の夜に働き方について考えている

さて、自分の働き方について

 

休職3ヶ月目という身分ゆえ、今後について考えることも増えてきた。

ただ楽しく心の赴くままに生きることはシンプルだけど、

私にとっては考えずにいることはなかなか難しい。

 

 

多分 人並みのお金を稼いで生きていくことはできると思う。

今までの私の経歴は、そこそこ社会的にまともと言われるもので、

一部上場企業で管理職を経験したというのは、一つの指標なんだろう。

 

どこの会社にもいる、結果を出せる人。インパクトを出せる人。

こういう人は、余計な考えことに思考を割かない。シンプルに、結果に愚直。

多分、そういう存在に憧れていたし、今もその気持ちはある。

社会的に成功したいのに、そのステップの踏み出し方から正解を取りに行こうとする。

在職中は、この気持ちに気付かなかったな。

感情に素直になれている自分にふと気付く。

実際に1番になってみたら、その先が見えたかもしれないな。

 

 

いつだって、家族が始まりだった。

というか、身近な不便が始まりだったといえば良いのか。

記憶を辿れば小学生の時から友達や先生とのコミュニケーションに不自由さを感じていたし、孤立していた。誰かに相談してもらえないことが、誰かと信頼関係を築けないことが寂しくて、人の話が聞けるようになりたいと思った。

仕事が続かない生きづらそうな兄弟を見ていて、就労支援ができるようになりたいと思った。今は、家族の不仲を見ていて、家族心理学に興味を持ったり、あの頃の自分のような子供を増やしたくないと、思春期の子供の支援や学習支援に興味を持っている。

自分自身の生きづらさを理解しているから、他者への生きづらさや感情の変化にはかなり敏感だと思うし、それが私の強みでもあると思う。

 

その動機はちゃんと達成されていて、

冷静に人の話を聞くことができるようになったし、

感情に翻弄されない人との距離の置き方や

延いては自分の受け入れ方や、人は基本的には理解できないものであり、分かり合えないことによる苦しみと、境界線をきちんと引いて自分の世界を生きることに関しても、体感レベルで理解できるようになった。兄の理解者になり、助言を聞いてくれるようになったし、社会資源に繋がってもらうことで少しづつ彼の世界にも変化が訪れていると思う。

 

多分私が現職で体を壊したのは、「もうミッションをクリアしているのに、頑張り続ける必要がない」というメッセージだったのだと思う。

 

優秀じゃないけど、人より感性は豊かだと思う。

ただ、感性豊かなことなんて役に立つのかな。

同時に頭の中で「感性について役立つ役立たないの議論は意味ないよね。」と聞こえる。

でも、せっかくあるのだとしたら、社会のために使いたい。

でも、また家族のために生きようとしている。

そして、前職では、自分のことより人のことを大切にしすぎて、

自分が壊れた。本当に失礼なことだけど、面談中に「私、何してるんだろう」と思ったことは一度や二度じゃない。

 

人の力になることが目的になってしまって、

自分を幸せにすることが目的になっていないように思う。

自分が幸せじゃない人に 人を幸せにすることはできない。

 

食い扶持を繋ぐために、今すぐ仕事を選ばずに働かなくてはいけない訳ではないからこんなことを考える。

一見ネガティブな悩みに見えるけど、私はこの恵まれた環境や時代に感謝しているし、だからこそ有り難く受け取って幸せになりたいと思う。

 

考えごとは続いていく。