9月の風について

アースウィンドアンドファイヤ!

セプテンバーが来た。

 

8月はわたしにとって、おじい、おばあ、べりーちゃんの命日があって、

毎年、どこか 誰かが乗り越えられないんじゃないかって 不安なのですけど。

 

同時に大切な人の誕生日もあるし、

今年の8月は 今までのなっがーい トンネルから抜け出したような そんな月でもあった。

 

まだまだあついのに、

開けた窓から、ふと、金木犀のような香りがして、

カレンダーの日付を見たら、もう、夏は終わっていた。今日ばかりは蝉すら鳴いてないな。閉店か?

 

良い夏だったなぁ。

特別なことは何もしてないのに、特別なことが飛び込んで来てくれたんだ。

 

最近は、予定が入っていないと本当に暇なので、

本ばかり読んでいます。

 

本は紙で読みたい派のわたしは、

また、買いあさって、読み切ってないのにまた買って、今のところ1日一冊のペースで、言葉を食べている。まんがでわかる古事記から笑、雑食でいろいろと。

 

昨日つい手にとってしまったむらかみさんのところ  という本は

熱烈なファンの方からの質問メールに一つ一つ村上春樹さんが至極丁寧回答していく様をそのまま記録したものなのだけど、

これがおもしろくて!一晩で読み切ってしまった。

村上春樹さんの作品は何を読んで何を読んでいないのかわからないくらい浅い読み方をした記憶しかないのだけれど、

 

質問に対する回答の仕方から見える人柄や、はと目が開くような回答がいくつもあって。

 

知的で文学的でお茶目な男性っていうのは、こうも魅力的なんですねぇ。もっと真剣に、村上春樹さんの作品を読みたいと思った次第でした。

エロいって言葉は使うな、セクシュアルだと言え、とのことで、これからはその教えに従っていきたいものです。

 

いずれにせよ自分という人間に開き直りつつも、大河の流れに自らを放りなげろ、みたいな人生観は、本当に勉強になるものがあったなぁ。。

 

9月はお花屋さんになりたい。

お花屋さんで風に吹かれたい。

小さい頃からの夢をふと思い出し、

どきまぎしながらも何軒かの花屋さんに問い合わせて見たところ好意的に話を聞いてくださるところを見つけた。

 

自分のための実習開拓、なかなか緊張しました。

初回アポは取り付けたので、あとは獲得までやるのみ。

 

みんなにはどんな9月の風が吹くんだろう?

 

 

 

 

喫煙習慣について

21歳くらいの時から、気がついたらタバコを吸っていてつい先日の瞑想で10日間 強制禁煙

 

もう吸うことはないだろうと 辞められてるか試した一服でまたぶり返し

 

量は減るものの 1箱買って2本吸って 

あぁやめると思い18本残るタバコを水浸しにしてすてるも また買い 捨て 勿体無いので最近は律儀に最後まで吸い と 見事な未練を発揮しながら今日まで過ごしていたのですが、

私の場合、そもそも美味しく感じるのなんて10本吸って1本あるかないかで あとの9本を吸っている時 あるいは吸う前 吸った後 食道が縮まるような息苦しさと慢性的な吐き気に襲われるのに、それが治らないうちに また 煙草に手を出すという 

サテ 不思議 という具合な訳で

 

あまりにも自分で不思議なもので、

最近はタバコに関する書籍をふたつ 読んで見た

ひとつは煙草讃歌、もうひとつは禁煙、というか断煙 をした人々の間では噂の禁煙セラピー という本。

 

煙草讃歌はまぁだいたい想像してた通りで

禁煙セラピーは  改めて

なんで自分は煙草を(どんな目的で)吸っているのか

何がきっかけだったのか

それは洗脳や思い込みである!

もう吸わなくてええんやで おめでとう

 

と、煙草をやめなくてはいけないという我慢辛抱忍耐力ありきの禁煙法ではなく

こんなに害のあるもの もう吸わなくてよくなった。素晴らしい。喜びなさい!

というメッセージが込められていて

禁煙に対する精神的な努力を要する一般的なイメージとは一線を画していた。思わず自分も 一旦本を閉じて いつからだっけ どんなことがきっかけで

と思いを巡らせることが出来た。

 

今日は、それを忘れないように 書き留めておく。

なぜなら、わたしはなぜ煙草を吸い始めたのか

自分でわかっているから もう。

 

当時のわたしはいま という瞬間に 耐えることが難しかった

いまという瞬間から連れ出してくれる何かが欲しかったから だから どんなに苦しくても 吸い続けたんだ。

高まる衝動とかストレスとか緊張とか不安、憂鬱を一度吸い込んでから 大きく吐き出す行為

それは深呼吸をする前に一度全てを吐き切ってから吸った方が多く吸える、そんな道理と似てる気がする。

吸ってる間は 煙草を吸っていること自体ではなく

その後の時間が来るのを先延ばしにしたり

自分の中に生まれた感覚に執着したり

そうして 生き延びてきた節があるのかもしれない。

 

だけど結果的にそれはわたしを救わない ということが麻薬依存者であることをきっぱり断言されて改めて はたと気付いたような気持ちになっている。

 

禁煙じゃないのだ。断煙。さようなら煙なのだ。 

幸い いまを生きる術 代替手段は身につけているはずで、愛しい楽しみと別れるわけではなく、

ズルズル引きずっただめな彼氏と別れるような

そんなさようなら と手放すような

そんな感覚に似ている。

 

もうなくても、生きていけるんだ。

ゆるやかな自傷行為が 幕を閉じる予感。

まぁやめて5時間くらいなんで。まぁね。

 

 

少年時代の

 

 夢はつまり思い出の後先

という歌詞が 詰まりではなく つまりそれは という意味であることを始めて知った

 

夢というのは いつもわたしには現実味のない言葉で

なぜか虹と雲とケーキ屋さんを思い出す

そういう風に きらきらしてポップじゃないといけないと思い込んでいたのかもしれないなぁって

いまは 古民家を改装して家族で住むのが夢だし

ロッコのイブサンローランの庭に行くのも夢だし

気になって仕方のないレストランにいくのも夢だし

庭には果樹園が欲しいとか

大小粒度問わずに考えれば、たくさんたくさん ある

 

夢を持つことの邪魔をするのは、いつも不安な感情さん

 

 いまをどこかにしがみついていないと不安で、知らず知らずに握りしめる手すりのようなものを

いつかどこかのタイミングで手放さなければ

好きなところへは行けないのだけど

手放したところで相手が手を広げてくれるかどうかなんてわからないし

どうにもそれを自分の意思で手放すってことは怖いもので、大体の場合、永遠に握りしめる人もいれば、離さずにいられないような濁流に飲み込まれてしまった時に あーもう パッ!!!って そうして。

人を信じるって尊い。信じれる人でいたい。

それがとても難しいことだったとしても。

信じれる人だから信じるんじゃなくて 信じるから信じれる人になるように。

 

夢って純粋に信じたいもののことを言うのかもしれない。

 

それにしてもなぜかいつも

理解者になりたいという想いを刺激してくる人を引き寄せるんだ 

同時に、理解してほしい自分の欲求が満たされないんじゃないか?という不安も頭をよぎる。

人と人の一対一の関係性は 互いにバランスよく なんてことは難しくてね

いつだってすこしアンバランスな気がする

 

理解してほしい過剰な欲求を自分の中で昇華させらのは大前提なんだろうけど

 

努力しなくても理解してくれる人に出会えたら最高

でも努力してでもわかり合いたいと思える人に会えるのはもっと最高なんじゃないかっていう気がする。

すごく難しいけど

ここが尖ってるから。。とかここに穴が空いてるから。。とか全部ひっくるめて包み込む人でいたい。

これも夢。この人だと思った相手を信じること。

 

小さい頃繰り返し見た物語がその人の人格に大きな影響を与えるのだとしたら

わたしはアラジンを見まくったから

愛に身分は関係ないこと カッコつけると痛い目見ること

いざとなったらランプの魔人が助けてくれること

ジャファーみたいなやつの前で時に戦わなくてはいけないこと

空はいつか絨毯にのってとべるということ

 

そういうことが染み付いていてほしい。

いま ここ ということ

3日間の旅行に言った。千葉県は私が思っていたよりもずっと広かった。

休みとはこうあるべきと思うような 一緒にいる時間を心から楽しむ

そんなことができる人に囲まれて 私まで楽しく 浮かれた旅に。

 

道中 旅を一時離れて電車移動をした1日は 半日電車の中で、

「人を助けるひとは なぜ自分を助けられないのか?」の帯メッセージが「私のことかな?」と刺さりすぎてアマゾンでポチったこの本を読んでいた。

人を助ける人というのは、いわゆる対人援助職と呼ばれる

何かしらの技術を通して 直接人への生きづらさへの支援をする職業で、

医者とか心理士とかソーシャルワーカーとか学校の相談員さんとかまぁ色々。

 

対象は社会の中で何かしらの「援助」を必要とする人で、障害や疾病がある人から社会的なマイノリティ(シングルマザーとか、LGBTとか、老老介護とか)の人まで、

明確には定義されていないと思う。「援助が必要」なら誰でもそれに該当するし

助けてもらう立場であり、同時に同じ人がまた助ける立場であることもよくある。

まぁその連鎖で社会は成り立っていると思う。

 

私のやっていた仕事もいわゆるそれに該当するので、「対人援助職あるある」というのは、現場で働いていた5年間で自分自身も同僚の様子も、自分の感情を統制しながら数時間ネガティブな人の話を真剣に聞くことの大変さや「応援したいと人としての自分が思えない人」の支援を行う時の葛藤、そうしたことを通して支援者自身が疲弊していくのを嫌という程見てきた。

 

他の仕事は真剣にしたことがないのでわからないけど、

「サービス提供」にあたって、対人援助職というのは「支援」という目に見えない、かつ目の前の人間から直接的に提供される、媒体が「人」であり扱うものが「人の人生」であることなので、かなりダイレクトでストレスがかかりやすい特殊性があると思う。

 

 この仕事は人間に興味がある人にとってはかなり面白いけど、

自分を救うためにやっている人にはいつか糸が切れる瞬間がくるのではないかと思う。

まぁ実際、テキトーにやっている人間もいるから鈍感な人の方が続けやすいんだろうなとも思う。金は稼げないので、食い扶持としてこの仕事を選ぶことはお勧めできないし。

 

そんな対人援助職の人をモデルにしたケースも紹介されていて、

ひとつ前の記事にも書いたけど、私は典型的な「人を助けるけど自分を助けられない支援者」だったんだなぁと、思う。

 

話がずれたけど、

この本は読みながら何回か泣いてしまった。特にヨウスケさんのケース事例の紹介は

人が変わりたいと願えることはとても美しくて、心動かされた。

だからと言ってマインドフルネスとスキーマ療法をさらに深く学びたいとは思わなかったのだけど。

マインドフルネスもスキーマ療法も知らなかったけど、

マインドフルネスはヴィパッサナー瞑想でやっていることと手法は違えど「いま ここ」という感覚に注意を向けることはほぼ同じことだし、

スキーマ療法についても、いわゆる「潜在意識」と呼ばれる無意識レベルの刷り込みや思い込みと大いに通ずるところがあった。

 

みんな精神科や心療内科には行かないけど占いや前世や催眠療法、霊視とか民間で行われる者には高い金を払っていくし、実際それに救いを求めることも多い。形は違うけど以外と中身は似ていたりする。みんな癒しや答えを求めていろんな形のセラピーを探し求める。

 

誰もが助けがあって生きていける。

助ける側に立ちやすい人は、自分も時に助けてもらう立場であるということを忘れる。

思ったままを口に出さず、相手の受け取り方を考えて言葉を選ぶ癖がついてしまって、

それができないと、傷つけたのではないかと後悔する。

 

まずは自分の潜在意識レベルで求めている欲求を知り素直に。

同じことが何回も繰り返されるのは、気付きのためのサインが何回も送られているのに、自分が気付いていないから。

 

文章を書いて誰かに見てもらうことは私にとってセルフケアのひとつ。

読んでくれてありがとう。

 

平成最後の夏の夜に働き方について考えている

さて、自分の働き方について

 

休職3ヶ月目という身分ゆえ、今後について考えることも増えてきた。

ただ楽しく心の赴くままに生きることはシンプルだけど、

私にとっては考えずにいることはなかなか難しい。

 

 

多分 人並みのお金を稼いで生きていくことはできると思う。

今までの私の経歴は、そこそこ社会的にまともと言われるもので、

一部上場企業で管理職を経験したというのは、一つの指標なんだろう。

 

どこの会社にもいる、結果を出せる人。インパクトを出せる人。

こういう人は、余計な考えことに思考を割かない。シンプルに、結果に愚直。

多分、そういう存在に憧れていたし、今もその気持ちはある。

社会的に成功したいのに、そのステップの踏み出し方から正解を取りに行こうとする。

在職中は、この気持ちに気付かなかったな。

感情に素直になれている自分にふと気付く。

実際に1番になってみたら、その先が見えたかもしれないな。

 

 

いつだって、家族が始まりだった。

というか、身近な不便が始まりだったといえば良いのか。

記憶を辿れば小学生の時から友達や先生とのコミュニケーションに不自由さを感じていたし、孤立していた。誰かに相談してもらえないことが、誰かと信頼関係を築けないことが寂しくて、人の話が聞けるようになりたいと思った。

仕事が続かない生きづらそうな兄弟を見ていて、就労支援ができるようになりたいと思った。今は、家族の不仲を見ていて、家族心理学に興味を持ったり、あの頃の自分のような子供を増やしたくないと、思春期の子供の支援や学習支援に興味を持っている。

自分自身の生きづらさを理解しているから、他者への生きづらさや感情の変化にはかなり敏感だと思うし、それが私の強みでもあると思う。

 

その動機はちゃんと達成されていて、

冷静に人の話を聞くことができるようになったし、

感情に翻弄されない人との距離の置き方や

延いては自分の受け入れ方や、人は基本的には理解できないものであり、分かり合えないことによる苦しみと、境界線をきちんと引いて自分の世界を生きることに関しても、体感レベルで理解できるようになった。兄の理解者になり、助言を聞いてくれるようになったし、社会資源に繋がってもらうことで少しづつ彼の世界にも変化が訪れていると思う。

 

多分私が現職で体を壊したのは、「もうミッションをクリアしているのに、頑張り続ける必要がない」というメッセージだったのだと思う。

 

優秀じゃないけど、人より感性は豊かだと思う。

ただ、感性豊かなことなんて役に立つのかな。

同時に頭の中で「感性について役立つ役立たないの議論は意味ないよね。」と聞こえる。

でも、せっかくあるのだとしたら、社会のために使いたい。

でも、また家族のために生きようとしている。

そして、前職では、自分のことより人のことを大切にしすぎて、

自分が壊れた。本当に失礼なことだけど、面談中に「私、何してるんだろう」と思ったことは一度や二度じゃない。

 

人の力になることが目的になってしまって、

自分を幸せにすることが目的になっていないように思う。

自分が幸せじゃない人に 人を幸せにすることはできない。

 

食い扶持を繋ぐために、今すぐ仕事を選ばずに働かなくてはいけない訳ではないからこんなことを考える。

一見ネガティブな悩みに見えるけど、私はこの恵まれた環境や時代に感謝しているし、だからこそ有り難く受け取って幸せになりたいと思う。

 

考えごとは続いていく。

みずからをしんじる

「自信ないよね」という言葉の裏には

(もっと自信を持っても良いのに)自信ないよね とか

(自信なさげな私にある種のイラつきやもどかしさのようなものを覚えて)どうしてそんなに自信がないの? とか

 

自信がある=良いこと という考え方が疑われもされず

いろいろな場面で振りかざされているような気がするし

自分自身も振り回され また時に人を振り回してきたのだと最近思う。

長い間 それが自分のアイデンティティだと思いこみ、思い込み故に現実になってきたことがたくさんあると思う。

 

けど今は そもそもそんなことあってもなくても良いし

あって良いことも多いけど 無くても悪いことだけじゃねーよとも考えてる。

 

 

 

ずっと勘違いしてきたことがあって、

「自信の持てないことやもの」を「自信が持てることやものにしたい」という願いは

「今の自分を否定すること」だと思っていたことに最近気付いた。

「現状の自分を受け入れ愛すること」こそが自己肯定だと。

 

無意識に「こうなりたい」「あれができる人に憧れる」「ああいう人になりたい」という思いは「今の自分を否定することだぞ!」とシャットアウトする防御機能が働いていて、長い間 本当に欲しいと願っていることが何か それを自分が望んで良いのかがわからなかった。

 

でも、「現状を自分を受け入れ愛する」ということは

「そう願っている自分を受け入れてよりよく素晴らしい自分になることなんだよ」と

教えてもらって、すごくすごく長い眠りからさめた気分だった。

 

 

「好き」と「愛」の違いは 愛の中に好きが一つの要素としてあるのかな

自分の好きになれないところがあっても 愛していれば 時に諦めたり 時にそれを直す勇気をもてたりする。好きになれないけど、愛しているってことは ある。

 

好きになれないところは好きになれるように努力したら良い。というか努力して良いの。努力したいと湧き上がってくることにだけ 頑張りは使ったら良い。

自信っていうのは 自分が感じていることを信じる ってことなのかな。

ツイッターで話題のダイエット中よさわつばさ先生も、

「自分との約束は絶対破らない。破った瞬間から自分を信じる力が弱体化するから」

って言ってた。

 

好きになれなくても 愛したら良いんだと思う。

 

 

 

 

8がつ14か かようび

新月になるたびに、何座にあるのだろうと考えるようになったのは姉の影響だ。

いつも感情が消化できなくなるとSOSを出すようにお姉に連絡するのは

全肯定されているということを言葉や態度で示すのが、出会った人間の中で1番上手な人だからだと思う。空飛ぶ飛行機に乗る仕事をしているので、空飛ぶカウンセラーと呼んでる。

 

ドイツの作家ミヒャエル・エンデという人の書いたモモという本がある。

主人公のモモはただひたすらに「聞く」ことに集中する能力に長けていて、次々に訪れる人を癒していくストーリーなのだけど

だいたいの場合 人は人の話を聞いている時評論家になったり 空想していたり 次にいうことを考えていたりして、本当に「聞く」ことに集中していることは少ない。

姉のことと一緒にモモをよく思い出す。素直に、ただ、「聞く」ことだけをする。

 

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鬱屈とした想いが吐き出すように文章を書く動機になるんだと、

最近の自分を観察していて思う。

 

最近は色々なことが起こっていて楽しいことも驚くことも笑えることも。

仕事をしていないので暇の極みなはずなのに、なんか忙しい気持ちだ。

誰にも理解されないだろうと思いながら感じていることを書くんじゃなくて

最近は 顔を見て 伝えたい。わかってほしい。理解してほしい。と

特に好きな人たちに対して思うようになった。

 

匂いも音も 8月をこんなに濃く感じたのは 生きていて初めてかもしれない。

 

そういえば最近きく という言葉を「訊く」と変換してきた人がいて、

私はそれをみて嬉しくなって つい 変な人ですね と褒め言葉をして

「素敵変人」の称号を差し上げた。

 

良いことも悪いことも全て永遠には続かない。

からこそ 今あるその流れに乗りたいと思う。

「働いていない人」という世間的なマイノリティの立場の今

改めて「ああ働くって 生活の糧を得るためにするんだな。働くために生きるんじゃなくて 自分が生きたい人生のために働くことがあるんだな。」って

よく考えたらそんな当たり前のこと

一度レールを外れて見て気づくことができて 私は嬉しい。

 

 

夏休みの日記みたいだ。