愛するということ
- 作者: エーリッヒ・フロム,Erich Fromm,鈴木晶
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1991/03/25
- メディア: 単行本
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ちょこちょこ中断の期間を設けながら(ページが進まなくなるタイミングを挟みながら、約1ヶ月かけて)読み終わる。
きっかけ
以前から色々なメディアでこの本のタイトルが持ち出されることはあり、その度に気になってはいたけど今回たまたまタイミングがあって購入。
所感
なんとなくこういうことを言ってたろうという記憶の中の印象的なフレーズは、
「恋愛において、ほとんどの人は突然愛さずにはいられなくなる”対象“に突然出会い、それにより自分の中に愛が生まれると勘違いしている。つまり、今は誰かを愛する能力がなかったとしても、ある日突然”愛すべき人との運命的な出会い”を果たすことで、自分自身に「人を愛する力」が手に入ると思っているのだ。」
特定の対象に出会うことから愛が生まれていくという考えをフロムは「勘違い」という言葉を使って否定している。
ある日突然の出会いにより授かるものではなく、技術として鍛錬し手に入るものが愛である、とほぼ前半で言い切ったこの考え方に対して目から鱗であり、自分の人との関わりを思い出して、思い当たるふしもチラホラ・・・
その後、家族愛や愛の技術が鍛錬されていない場合の話や、宗教における神への愛のケース紹介を経て(ここらへんは実感が湧かないからなのか圧倒的に眠くなったし理解が難しかった)
具体的に愛を技術として身につけるためにはどうしたら良いのか、という話になって行く。この辺りから難しく感じるパートが多くなって、最終章では、愛し方は時代に投影されるという主張。資本主義社会において愛は等価交換されるものであり「これだけあげたからちょうだい」「これだけもらったらこれだけあげる」という考え方になっている、という話。話のしめは、「愛は能動的であることが大事。そうやって考え続けることが大事です」という具合で、「え、これで終わり?」つい見直してしまった。
あまりにも何を言っているのか理解できていないと感じる部分が多く、ベストセラーにもかかわらず読み終わった後は「・・・」という感じだった。もう少し理解を深めたいので、もう一回読み返そうかな。
本を読み返すなんてことは
面白くてもつまらなくてもしたことがない。
読み終わってこうやって感想を書くことで頭の整理をしようとしたこともほぼ初めてなので、そうしたくなるだけの何かはこのテーマにあると思う。
はじめに注釈を読みまくって理解を深めてから再度読んでみようと思う。
無我な人々に無性に心打たれながら感じるジレンマ
こんにちは。いかがお過ごしですか。
無職生活を初めて2ヶ月たちました。私はすこぶる元気です。
ブログのタイトルからして、私が聞いたことのないこのラジオ番組の中にいる人たちやこの書き手の人のこころの美しさが伝わって来てしまった。
こうやって、書いて番組から給料が出るわけではないのに
書いていらっしゃるのは やっぱり純粋に対象を好きだからなんだと思う。
純粋な疑問も純粋な憧れも純粋に心惹かれることも
損得勘定のない思いは透明で、キラキラしていて、
少しづつ忘れてしまったあの感覚を思い出させてくれる気がする。
先日ヴィパッサナ瞑想で知り合ったひとたちとご飯を食べに行ったのだけど、その中のひとりの男の子はブログのアフィリエイトで収益を得てて、口ぶりからすると割と結構稼いでいるらしかった。
で、そのブログを見てみると、瞑想の体験談がキャッチーなタイトルにわかりやすい目次、キーワード検索した人が知りたいであろう情報が端的かつ網羅的に書いてあって、
それで、彼にとってのブログは、相手が知りたい情報を書くことであって、アフィリエイト収入を得るという目的に沿って極めて理性的に合理的に書かれたものなんだと思った。(1年間、1日10時間記事を書き続けたらしい。修行である)
相手が求めるものとか必要なものを敏感に察知して提供する。大小問わず、会話から、生活から、サービスから、そうやって発展してきた文化や技術を(話のスケールがおかしなことに)私たちは無意識的に享受しまくっていて、無意識に意思決定している。
そのブログを見た時に「あーそういう感じね」と失望にも似た気持ちに勝手になったのは、一瞬アイフルのCMばりに「そこに愛はあるんか?」とききたくなってしまったからだと思う。お金を稼いでいるのは能力の一つだから純粋に尊敬に値するけど。
「インフォメーション」なのか「ラブレター」なのか。
結果として得られるものへの期待があるのかどうか。
望ましい動かし方が想定としてあるのかどうか。
書いていて、わからなくなってきた。
自分で意思決定しているようで、操る側の意図に乗せられていることなんて
山ほどあるし。
とにかく、背景に愛や思いやりがあることが大事なんだ!!!
そもそも愛の定義から攫いたくなるから、もうやめよ!!!!!
昨日帰り道で一緒になった姉のような人が
私は相手のことは考えないよう意識するくらいが結果丁度いいと言ってくれたので、
意図は入れず、目指したいゴールも作らない。
それを信じてしばらくは吐き出すようにさせてもらおうと思う。
万年モラトリアムでもいいじゃない
万年モラトリアムという有難いキャッチコピーをいただいたので意味をググってみたら下記の検索結果が出て来てニヤニヤしてしまった。大人社会に同化出来ずにいる人間...
年齢では大人の仲間入りをするべき時に達していながら、精神的にはまだ自己形成の途上にあり、大人社会に同化できずにいる人間。
毎日頭の中をいろんなことが駆け巡って行く。
それは風のようにだいたいの場合は心をかき乱して
少し後になるともう思い出せないようなそんな具合で来ては去って行く。
浮かんだ考えや疑問に執着して、答えが見つけるまでしつこく原因探しをしてしまうような癖がある。
わからないからといって考えることをやめるようなことは
無意識に自分に禁止して来たのか 自分自身でただこだわって来ただけなのかはわからないけど
その時の自分にはわからないけど 数年後にわかるようなことも往往にしてよくあるし
考えぬいた結果 あぁそうかと答えちっくなものが見つかり 心に突っかかった魚の骨が取れるような感覚になることもあるので
普通の健康的な人たち(ってなんだろう)ならば
そんなこと意識すらしないで、どっちにしようなんてエネルギーを使わないところに エネルギーを使っているんだと思う。
最近は「わからないこと」=自分の能力不足(原因は自分にある)と考えるのはやめるように努めている
健康的な人は 自分自身とそれを囲む環境をバランスよく客観的に観察出来る 必要以上に卑下も見下したりもしない
ひとつひとつのものを自分でも何を持っていたのかわからなくなるくらいに握りしめることは
自分の置かれた立場を正しく理解していないことなのかもしれない。
ついつい握りしめずにいられない自分の手のひらを
点検しながら、
「左手のネイルのムラが気になってて気持ち悪いいちからやり直したい」とか
そういうレベルのこだわりや執着から手放して行きたい今日この頃。
今日の夜から神戸大阪京都の旅に出る。
会う人全員が職場の同期や元同僚
世間一般からすると全員変人なんだろうけど
昨日「素敵変人」ということばを教えてもらって自分的ヒットだった。
かわいいひと
「可愛い人」でも「かわいい子」「美人」「綺麗な人」でもなく、
「かわいいひと」っていうのは存在すると思う。
ウルフルズも歌っているように。
その人は職場の先輩で、三連休の中日に、鎌倉まで来てくれた。
緑色のギンガムチェックのワンピースと、トレードマークのリュックサックで。
とびきり美女なのに化粧っ気がなくて、それが更にうずらの卵をちょこんと乗せたような頭の形を際立たせている。手足が長いのに、あまり見せない。
自分を良く見せようとかは、あまり思考回路にないみたいで。
由比ヶ浜の海の家で乾杯するために駅から海までの道のりを歩き、一足1300円のサンダルを、「気に入ったから」「履き潰しても悲しくないから」という理由で同じ色のものを3足も買ったとか、話す。
私は彼女の、彼女なりの判断基準や、目に映るものや耳に入るものについて聞くことが好きだ。
一緒にいると、おしゃべりするよりもその人が話しているのを見る方が楽しい。
独特の視点と角度で出会ったものやことををまっすぐ切り取って、
その人に起こった出来事やその人の受け取り方を聞いている。
頭の中で起こっていることや経験してきたことは
ここでは書けないような濃いことばかりなのに、擦れてはいない。
疑い深いのに、先入観が全くない。
信じられない勢いで物事を進めるのに、知らないところですごく傷ついている。
世間が欲しいものをたくさん持っているようでそれを全然欲しがっていない。
自意識があるのに、気持ち悪さはまるでない。
欲せば手に入るものもたくさんありそうなのに、最低限以上のものは欲しがらない。
ある種の純粋さを持ち合わせていないことを自覚している人は、
その瞬間を生きている彼女のアンビバレンスさに惹かれ、気がついたら保護者になっている。
「自分が美女っていう自覚はありますか」と聞いたら「最近、そう言われるってことに気づいた」と話す彼女の嘘のない目は、
人は何かになろうとしても無理で、自分のままでしか生きられないんだということを教えてくれた。不器用でもそのまま生きている姿に勇気をもらう人はたくさんいるよね。
書くことについて
長い間、パソコンというパソコンを持たずに生活をしてきた。
一度、当時付き合っていた人に新社会人祝いで買ってもらったsurfaceは、
なんだか小さくて使い勝手が悪くあんまり好きになれなかった(有り難く使ったけど、たくさん。でもワクワクすることには使わなかった)ので、それにお礼を伝えて下取りに出しつつ、1か月前に思い立ってMacBookをビッグカメラで買ったのです。
なんかやっぱりリンゴマークのシンプルなデザインが好きだっただけなんだけど、実際に使ってみると、軽いし、早いし、iPhoneと互換性バッチリだし、ctrlがcommandに代わり、指の位置の記憶修正ができないこと以外は、あー買ってよかった!と思っている。
自分の中にあることを書いて見たいと思った動機はたくさんあるけれど
ひとつはMacで文章書いてたらかっこいいわな・・・と言う思いと、もひとつは
やっぱり、仕事でも生活でも想いや感じたことを言葉にすることへの苦手さを昔からすごく感じていて、表現できなくてもどかしい想いをしたりとか、近い人にもわかってもらえている実感を得られないこともあったことが、一番のそれだと思う。
表現された音楽や文学やコンテンツ、写真、絵でもなんでも 自分の感性を重ねあわせて共感することを 私たちは日常的に息をするようにするし、その好みは千差万別 色々な影響を受けていると思うけど、ここ2年くらいは 時折そういった行為が自分の中で「消費してばかりだな」とか、何も生み出していない実感を強めるものになったりとかで、ちょっとどう折り合いをつけていけば良いのかわからず迷ったりもしていて。
こうやって書くと、自分でもどんな大したもの書くねんとツッコミそうになるのだけど、始める前から、理想を描きすぎてその理想に押しつぶされ断念するのが私の悪い考え方の癖なもので、だから、自分ジャッジメント(良いも悪いも)せず、続けて行こうと思う。
私が書いてきたものといったら、
仕事のメール
iPhoneのメモ
だしね。笑
午後は歯医者に行ってきまぁす。
優雅な朝
おはようございます。
誰が受け取るかわからない文章を書くということはなんだか不思議な感じがするもので
8日には瞑想修行から帰ってきていて
その後は家で考え事や読書や云々する日々なのに、
なんだかテーマが大きくて気が重くて腰も重くてなかなか書き始められない感じ
仕事を休んでいるので、フルタイムで働いていた分の余白が毎日ある。
その余白の輪郭が引き延ばされすぎて解像度が下がったり
逆に余白の中に詰め込みすぎて結局余白で無くなったり
そういうことがないように、淡々を生活したい気持ち。
とりあえず、書きたいと思っているテーマについてだけ、
ここに羅列しておこうと思うに!
・書くことについて
・うつ病になった話
・ヴィパッサナー瞑想の話
・愛の話
・私の周りの可愛い人たち
・身の回りをちゃんとしたい話
ゆっくり自分のペースで更新をしていこ・おー!
ヴィパッサナー(瞑想修行)に行ってくるよ。
存在自体は7年ほど前から知っていたヴィパッサナー
最近ひょんなことからヴィパッサナーに行ってきた人の話をきき、
ふと行ってみようと思い申し込みをしていたのだけど、
明日からのタームのキャンセル待ちに空きが出たとのことで、
明日から12日間 電子機器はじめ色んな嗜好品とさらばして行ってくることに。
家でゆっくりするのも良いけど、
新しい体験も良い。
これを機に瞑想の方法が習得できると良いな。
終了後また記事を書きます。