無我な人々に無性に心打たれながら感じるジレンマ
こんにちは。いかがお過ごしですか。
無職生活を初めて2ヶ月たちました。私はすこぶる元気です。
ブログのタイトルからして、私が聞いたことのないこのラジオ番組の中にいる人たちやこの書き手の人のこころの美しさが伝わって来てしまった。
こうやって、書いて番組から給料が出るわけではないのに
書いていらっしゃるのは やっぱり純粋に対象を好きだからなんだと思う。
純粋な疑問も純粋な憧れも純粋に心惹かれることも
損得勘定のない思いは透明で、キラキラしていて、
少しづつ忘れてしまったあの感覚を思い出させてくれる気がする。
先日ヴィパッサナ瞑想で知り合ったひとたちとご飯を食べに行ったのだけど、その中のひとりの男の子はブログのアフィリエイトで収益を得てて、口ぶりからすると割と結構稼いでいるらしかった。
で、そのブログを見てみると、瞑想の体験談がキャッチーなタイトルにわかりやすい目次、キーワード検索した人が知りたいであろう情報が端的かつ網羅的に書いてあって、
それで、彼にとってのブログは、相手が知りたい情報を書くことであって、アフィリエイト収入を得るという目的に沿って極めて理性的に合理的に書かれたものなんだと思った。(1年間、1日10時間記事を書き続けたらしい。修行である)
相手が求めるものとか必要なものを敏感に察知して提供する。大小問わず、会話から、生活から、サービスから、そうやって発展してきた文化や技術を(話のスケールがおかしなことに)私たちは無意識的に享受しまくっていて、無意識に意思決定している。
そのブログを見た時に「あーそういう感じね」と失望にも似た気持ちに勝手になったのは、一瞬アイフルのCMばりに「そこに愛はあるんか?」とききたくなってしまったからだと思う。お金を稼いでいるのは能力の一つだから純粋に尊敬に値するけど。
「インフォメーション」なのか「ラブレター」なのか。
結果として得られるものへの期待があるのかどうか。
望ましい動かし方が想定としてあるのかどうか。
書いていて、わからなくなってきた。
自分で意思決定しているようで、操る側の意図に乗せられていることなんて
山ほどあるし。
とにかく、背景に愛や思いやりがあることが大事なんだ!!!
そもそも愛の定義から攫いたくなるから、もうやめよ!!!!!
昨日帰り道で一緒になった姉のような人が
私は相手のことは考えないよう意識するくらいが結果丁度いいと言ってくれたので、
意図は入れず、目指したいゴールも作らない。
それを信じてしばらくは吐き出すようにさせてもらおうと思う。