少年時代の

 

 夢はつまり思い出の後先

という歌詞が 詰まりではなく つまりそれは という意味であることを始めて知った

 

夢というのは いつもわたしには現実味のない言葉で

なぜか虹と雲とケーキ屋さんを思い出す

そういう風に きらきらしてポップじゃないといけないと思い込んでいたのかもしれないなぁって

いまは 古民家を改装して家族で住むのが夢だし

ロッコのイブサンローランの庭に行くのも夢だし

気になって仕方のないレストランにいくのも夢だし

庭には果樹園が欲しいとか

大小粒度問わずに考えれば、たくさんたくさん ある

 

夢を持つことの邪魔をするのは、いつも不安な感情さん

 

 いまをどこかにしがみついていないと不安で、知らず知らずに握りしめる手すりのようなものを

いつかどこかのタイミングで手放さなければ

好きなところへは行けないのだけど

手放したところで相手が手を広げてくれるかどうかなんてわからないし

どうにもそれを自分の意思で手放すってことは怖いもので、大体の場合、永遠に握りしめる人もいれば、離さずにいられないような濁流に飲み込まれてしまった時に あーもう パッ!!!って そうして。

人を信じるって尊い。信じれる人でいたい。

それがとても難しいことだったとしても。

信じれる人だから信じるんじゃなくて 信じるから信じれる人になるように。

 

夢って純粋に信じたいもののことを言うのかもしれない。

 

それにしてもなぜかいつも

理解者になりたいという想いを刺激してくる人を引き寄せるんだ 

同時に、理解してほしい自分の欲求が満たされないんじゃないか?という不安も頭をよぎる。

人と人の一対一の関係性は 互いにバランスよく なんてことは難しくてね

いつだってすこしアンバランスな気がする

 

理解してほしい過剰な欲求を自分の中で昇華させらのは大前提なんだろうけど

 

努力しなくても理解してくれる人に出会えたら最高

でも努力してでもわかり合いたいと思える人に会えるのはもっと最高なんじゃないかっていう気がする。

すごく難しいけど

ここが尖ってるから。。とかここに穴が空いてるから。。とか全部ひっくるめて包み込む人でいたい。

これも夢。この人だと思った相手を信じること。

 

小さい頃繰り返し見た物語がその人の人格に大きな影響を与えるのだとしたら

わたしはアラジンを見まくったから

愛に身分は関係ないこと カッコつけると痛い目見ること

いざとなったらランプの魔人が助けてくれること

ジャファーみたいなやつの前で時に戦わなくてはいけないこと

空はいつか絨毯にのってとべるということ

 

そういうことが染み付いていてほしい。