大人の役割についての考察
「そんな見た目で卒業式には出さないからな」
中学校の卒業式前日、私は制服のスカートの丈と化粧を理由に、輪になった教師10人に囲まれていた。体育館に、西日がさしていて、教師たちの顔が黒く光って見えた。
自分なりに妥協して長くしたスカート丈は、その輪の中にいる教師ひとりに「これくらいならセーフ」と言われたものだったけれど、どうやら他の教師の眼鏡には敵わなかったらしい。それを言った50代の女性教師は、申し訳なさそうに、何も言わず、床を見ていた。
中学校の教師から言われた言葉と共に、10年以上たった今も鮮明にその場面が思い出せる。今でも教師という職業にアレルギーがある。子どもの頃の記憶を忘れ、鈍化した感性のままで生きている大人が、少なからずいる。
自然と触れ合う自由な雰囲気の保育園を卒業した私にとって、たくさんの意味不明なルールやテストの点で序列がつく学校は異次元だった。
小さい頃の私は落ち着きがなく、小児喘息を患っていて、体が弱かったのでしょっちゅう入院していた。休みの間に抜け落ちた知識を授業の中で取り戻すのは、簡単なことではなく、いつも教科書に落書きをして時間がすぎるのを待っていた記憶がある。
つらい、さみしい、とか、素直に伝えることを学ぶ機会に恵まれなかったのか、それを習得できていなかったわたしは、中学校に入ると勉強だけでなく人間関係もうまくいかなかった。今思えば子ども同士のトラブルで済ませられないこともあったけれど、気付いて助けてくれた大人はいなかった。
やけくそになった私は、学年で1番下の成績を這いながら、好きだった香水やメイクをこれでもかと施して登校していた。田舎で相貌は異常に目立っていたのだろう、教師から多くの小言を言われたけれど、私はやめなかった。やめたら、自分のアイデンティティを失う気がしたから。
事態を変えるきっかけとなったのは、高校受験を控えた3年生の夏の3者面談で教師から言われた一言だった。出席日数、学力ともに基準を満たしておらず、公立では行ける高校がないだろう、とのことだった。
先生から見せられた高校のパンフレットには、見たこともない土地の高校ばかりで、
他人事のように、そりゃそうだろうな、と思ったが、親はその時初めてことの深刻さを知り、私はまるでついていけていなかった集団の塾から個別サポート型の個人塾に通うことになった。
新しい塾に対して期待もしていなかったし、どの高校でも、ここから出ていけるならばどこでもよかった。
ところが、個別の学習塾に通うようになって、わたしの人生の方向は大きく変わったのだった。学力が、信じられない勢いで伸びたのだ。担当だった先生に恋をした古文は、10点代だった試験の成績が2週間で100点になった。
集団授業では集中力を保つことが難しかった私には、好きな時に質問できて、個室で勉強できる環境が合っていたことが大きな要素だったようだ。
だけど、1番嬉しく、やる気を起こしてくれたのは、わたしを平等に扱い、出来た時にはともに喜び、わからない時は根気強く教えてくれる、信じてくれる先生がいたことだった。
たくさんおしゃべりをした。多くは大学生や大学院生で、大人の友達ができた気分だった。「校則が厳しいのが嫌なら、○○を目指せば?狙えると思うよ」そう言ってくれたのも、塾の先生だった。
塾が楽しくて通っているうちに、気付けば季節は夏からあっという間に冬になっていて、私はついに受験シーズンを迎えた。
当時の学力からは高い目標だった志望校には、内申点と面接のみで審査される前期試験、テストのみの後期試験があった。前期試験で既に不合格通知を受け取っていた私には後がなかったのだ。
当日のことは、記憶が抜け落ちたようにもう思い出せないが、その前日まで自習室で勉強をしていたこと、合格発表の日のことは覚えている。
数週間後、試験結果を見て、ぼーっとしていた私に、夕方近くになって塾長から電話が入った。
「おい! 結果は! どうだったんだ!」
「あの、合格しました」
そう、私は志望校に合格していたのだった。
電話の向こうで、塾長はすごく喜んでいた。そして、もっと早く言えよ、とも言っていた。私はその時に初めて、自分に期待して、待っててくれた人がいたことに気付いた。
もうその高校を卒業してから10年が経つ。
私は大学に進学し、新卒で入った会社で、それなりに社会人をしていたけど、
やっぱり組織に馴染めなくて、新しい生活を始めようとしている。
先週、高校時代の友達とクリスマス会をした。
同級生の子どもと遊びながら、小さくても色々考えてるんだろうなぁと想像する。
あの頃の大人たちが教育システムが完璧でなかったこともわかる年になった。だけど、やっぱり子どもだった頃の記憶を無くした大人にはなりたくないと思う。
信じる姿勢を持つ、子ども相手でも約束は必ず守る大人になりたい。
学校でも、家庭でもない場所で、あの頃の自分のような子に出会った時のために。
Neither ネギタマネギ
「私、ねぎも、玉ねぎも食べれない」と、勇気を出して伝えた。
手に汗を握るほどではないけど、5秒くらい、本気で伝えるか迷った。
日曜日の15時を過ぎた時間、海岸線を歩いて、20分。
12月だというのにその日は小春日和で、歩いていると汗ばむ。
観光地であるこの町にあるその小さな通りは、歩いていると誰も気付かないような
砂利道の奥に、趣のあるカフェや小さなケーキ屋さんが連なる。
その通りにあるひとつのお店に、近所に住む友人と待ち合わせて来ていた。
古民家を改装したその店は、いろいろな種類のベーグルを売るお店で、
お洒落で素朴なその店内に10名ほど食事ができる席がある。
キッチン、カウンターどちらも女性ひとりづつで運営していて、こじんまりとした店だ。
お昼どきも過ぎたその時間は店内もまばらで、
親切な店員さんがちょうどランチの時間が終わったところだが、お腹が空いているようであればランチプレートも用意できると言ったので、お言葉に甘える。
ベーグルにしらすと岩のりを挟んだサンドとスモークチキンのサンドはどちらも魅力的で、しばらく考えたあとに友人と私はどちらも頼んでシェアすることにしたが、ここでも店員さんは親切で、ここでも半分づつ切ってプレートにして出しますよと言ってくれた。
私は、メニューにのった写真を見てさっきから一抹の不安を抱えていることを言いだすべきかどうか迷っていた。
しらすのサンドには私の苦手な青ネギが、スモークサンドにはもっと苦手な玉ねぎが入っている。シェアするということは、私のだけでなく友人のベーグルからも抜くことになる。
つまり、もし店員さんに抜きにしてということをすれば、人によってはかなり重要な脇役である青ネギあるいは玉ねぎ抜きを、友人に我慢させることになるのだ。
人によってはそんなのとっとといえばいいじゃないかと思うかもしれないが、そういう小さな出来事ひとつとっても、心の癖というものはありとあらゆる場所で顔を出すものだと思う。
昔から自分の素直な感情、特に嫌いとか怒り、悲しみといったネガティブな気持ちを表現することには極端な苦手意識があり、外にだす前にその感情に蓋をしていた。
今思えば、素直に「構ってほしい」「寂しい」と言えた方が、怒ったような顔でブスッとしたり、気をひくためにしょうもない小さな嘘をつくよりもずっと良い方法なのだが、子どもはその時に周りの大人の反応や子ども社会の中の立場の変化で、時に誤った学習をし、それを大人になるまで繰り返し続ける、ということは良くあることだと思う。
素直な気持ちが言えない故に微妙な心境になることは大人になってからの方が多いかもしれない。
家族や恋人相手に本当は「大切にしてほしい」ということが言えずに攻撃的になったり、
その場では笑って流したけど後から失礼なことを言われていたと思い直してあの時怒るべきだったとモヤモヤしたり、
大人数でケーキやお菓子を選ぶ時に、本当はひとつしかないチョコレートケーキがほしいのに、「私は残ったのでいいよ」と言ってしまって、残ったお菓子を食べながらなんだか切ない気持ちになることは、誰にでも経験があることなのかもしれない。
人には拘りたい部分とどうでも良い部分があって、なんでもいいよと相手の気持ちの尊重をすることは思いやりと言い換えることができるかもしれない。
だけど、そのどちらなのかわからないままその時の自分の気持ちを無視して歩み続けると、ある日、自分の欲求センサー自体が鈍感になって、人生レベルで自分がどうしたいのかわからなくなる時が、くるんじゃないかと思う。
幼い頃に自分の素直な気持ちを出したけど受け入れてもらえなかった経験があるとか、
そもそも自分の素直な感情表現ができない、学べない環境にいたとか、
人それぞれ原因は違うと思うが、大切なのはそんな自分の心の癖が生きづらくなっている要因かもしれないと気付いた瞬間から、意図してどんなに小さな感情でも気付いて表現をすることだ。
「私、ねぎも、玉ねぎも食べれない」
とうとう店員さんに注文する時になって言い出した私に友人は、
「あ、私も玉ねぎ食べれない。でも、青ネギは食べたいかなぁ」と友人なりの好き、嫌いをさらっと表明した。
それを受けて店員さんは、「じゃあどちらも抜きにして作ってから、片方に青ネギを入れますよ」と先ほどと変わらぬ親切な笑顔で去っていった。
人の心は、目に見えないし、形もない。自分で形作らないと、相手には見えない。
好きと嫌いを言葉に、行動に、態度に表していくということは、目の前にいる相手に影響を与えるということでもあり、信頼して飛び込んでいくということでもあると思う。
それが跳ね除けられた時に受ける傷を思うと怖いけど、自分の心の形が自分でわからないことの方が、怖いことなのだと思うようになった。
手間をかけてくれたからか少し遅れて出てきたベーグルサンドはすごく美味しくて、お土産用にいくつも買ってから、私は友人と別れたのだった。
平成最後の年にやり残したことがないように私がしたこと
2年前の年末にした歯のホワイトニングは、結果的にすごく幸福度を高めてくれたので本当にやって良かったと今も思う。
歯医者さんでマウスピースを作ったらアマゾンで薬剤を購入し、注射器のような形状に入っている薬剤をマウスピースに注入、後はマウスピースをはめて数時間いつも通り家で過ごすだけ。
歯の横じみがずっとコンプレックスでいつかやりたいと思っていたホワイトニングは15000円程度でできるのに、日常生活の中の「笑う」という行為と、写真撮影時の笑顔を3段ほど底上げしてくれた。
日常生活の中には、
「やらなきゃいけないこと」
「なるべく早くやりたいこと」
「時間があれば、あるいはいつかはやりたいこと」
があって、だいたい私たちの生活はやらなきゃいけないことや、本当にやりたいのかわからないけどついやってしまうこと(飲み会とかSNSとか)で溢れているように思う。
かく言う私もその一人で、先日読んだ書籍で興味深い内容があったので、今日はその話をしてみたい。
「誘惑に弱くやるべきことを先延ばしにしてしまう人は、近い未来(今)のことは具体的に想像することができるが、少し遠い未来(3日後とか1週間後)のことは抽象的にしか捉えられない傾向がある」
つまり、目の前にある誘惑ははっきりと手にとって見えるが、少し先の未来に向かってやるべきことはぼんやり曖昧になり、それ故に短期的な報酬である誘惑に負けてしまうと言うことだ。
ギクッとしたのは言うまでもなく、同時に、未来の目標や願望を叶えるためには、
そこに立っている自分、その匂い、その光景までも、生々しい程に明確なビジョンを持てと言われる所以がわかったような気がした。
冒頭のホワイトニングのエピソードは、1年くらいはやりたいと思いながら先延ばししていたことに対して、「今年中にやりきりたいこと」として、急に具体的なイメージに近づいた故叶った小さな願望の話。
だが、締め切りを自ら作る方法以外にも身近な誘惑に負けずに本当に自分のためになる「やりたいこと」を生活の中でやっていく方法はあると思う。
それはなんとなく頭の中に抽象的にあるやろうと思っていることを具体化することで、
やりたいことリストあるいはやらなきゃいけないことリストに近いものがある。
そんなこと知ってるよ、と記事を閉じるのはもう少し待っていただきたい。
元々元来の先延ばし気質がある私は、監視がないとサボってしまう自制心の弱さを自覚している。未来の自分の幸せよりも今の誘惑に負けがちなところがある。
先述した通り、今と未来の時間の感覚に大きなギャップがあり、それが積み重なって自分の不利益になると言うことを嫌と言うほど経験してきたのだ。
だから、やりたいことリストだけでは実際にやりきることが出来ない。
なぜなら、そもそもそれにどの程度の時間がかかるかの想定が出来ないからだ。
大切なのは、そこに時間軸を足すことであり、開始、終了時間が明確であること、
出来なかった場合に翌日以降に修正がきくと言うことだ。
私は、某大手検索エンジン社の手がけるデジタルカレンダーを無料で有効活用することに決めた。
特に決まった定時のある仕事についていない今、朝目が冷めてから午前中何をするのかと言うことは非常に抽象的である。良く言えば自由。悪く言えばいくらでもサボれてしまう。
しかしこれを8:00起床、8:30朝食とすれば、自ずと目が覚めてからスマホを見てゴロゴロ…と言う時間が短縮できる。
同じように休日であれば9:00〜洗濯機を回すと設定をしておけば、たとえ朝食に時間がかかって9:15開始になってしまったとしてもその時間まだ朝食のテーブルで対して興味のないテレビをだらだらと見ることがなくなる。「予定」に対して遅延している意識が生まれるからだ。
ここまでする必要のないテキパキとした人からすると、あるいは休日くらい思う存分時間を気にせずだらだらしたい人にとっては無駄な行為に思えるかもしれないが、
折角の休日にスマホゲームやマンガで意図に反して時間を使い「何してたんだろ…」と落ち込むタイプの人は、こうした「予定の枠組み」を作ることが助けとなるかもしれない。
現に、このカレンダーによる予定管理は大きく功を奏することとなった。
あらかじめ月末に1ヶ月後の目標を決めてそれを週ごとに落とし込んだ目標を大まかに決めることで、ぼんやりとやりたいと思っていたことが具体的な目標になり、
週末に土日のカレンダーの内容を細かく設定しておくことで(格安SIMの契約をする、とかあるいはライティングゼミの課題の取り組む、とか)、充実した、かつ達成感の持てる時間の過ごし方になる可能性が高い。
平成元年に生まれた私は、平成最後の年末にやり残したことを作らないよう、
毎日自分の過ごし方がこれで良いのかこのカレンダーを見て振り返るようにしている。
今の所、抜群に効果がある。
自信が無くても良くないですか?
「俺(私)、自信ないんだよね」と話す人に会うことがたまにある。
まるで自信がないことがその人の人生の足かせにでもなっているように。
一方で「自信があっていいな」「自信過剰だよね」等、自信という言葉はいつもそれがあるかないかで人生が順風満帆にいくかどうかの使い方をされることが多いように思う。
そういう人に出会った時、私はいつも過去の自分を思い出す。
ちなみに、過去の話をしたからといって、今の私が自信満々な訳ではない。
だけど、前よりもずっと自分のことが好きになっているとは言えると思う。
何が変わったのかと言えば、ひとつの言葉に出会って、今まで見えなかった景色が見えるようになった、という表現が正しいと思う。
20代の最後の年に差し掛かるまでのほとんどの時間、どうしたらもっと自分に自信を持って生きれるかを考えることに時間を費やしてきた。
考えざるを得ないほどに、私は私のことをどうしても好きになれなかった。
過去を思い返すと、学生時代のうまく行かなかった事ばかり思い出すし、逆にうまく行ったことはよく思い出せない。社会人になってからも自分の仕事のパフォーマンスに自信が持てず、上司との面談では、いつも「自信がないよね」と言われ、「そうなんです……」と小さくなっていた。
色々な人が「自信を持ちなよ」と言ってくれるのだけど、ちっとも響かない。
それどころか、褒めてられると「どうせ褒めるところがないからそう言ってくれてるんだ」と卑屈に受け止め、逆に指摘されたことに関しては100倍くらいの重さで受け止める。元々物事の受け止めかたにかなり偏りがあったことが、今なら理解できる。
どう見えているか過剰に気にしてしまったり、人との比較をして自分にないものを探す癖が付いているから、人と会うととても疲れる。いつからか、私は気軽に人と会うことを嫌うようになって行った。自意識過剰だということもわかっていながら自分のことばかり気にする自分も嫌いだった私は、いつもこう考えていた。
自信があれば。
自信があれば自分を受け入れられるのに。自分を受け入れられれば人と比較しなくなるのに。
だけど。
正直、自信という言葉に疲れていた。
今まで色々考えても、本を読んでも、何かにたくさんチャレンジしても手に入らなかったものについて考え続けることにも。
本当に自分を受け入れるということは、自信がない自分でも良いと思えることだ。
頭では理解している。けれど、心がそうは反応しない。
そういう状態が長らく続いた後、ストレスで5年続けた仕事を休職。
失意の底にいる時、たまたまツイッターでみた呟きの一つだった。
「自分の好きになれない部分の、自分に良い影響を与えてくれた、あるいは価値があると思える側面を考えてみると良い」と。
たったこれだけ。なのに、私には目から鱗が落ちる思いだった。
自分の嫌いなところの良いところ?
自信が持てないところ。
人の目を気にしすぎるところ。
不安が強いところ。
その癖協調性がなく、落ち着きもないところ。
自信が持てない故、いつでも自分はこれで良いのか?と向上心を持てた。
人の目を気にしすぎる故、人の表情や目線の変化に気付くサービス業が向いていた。
不安が強いが故、重要な決断が必要な場面で迂闊な判断をして失敗したことがなかった。
協調性がなく皆と同じことをするのが嫌だから、人が思いつかないアイディアを出すことが出来た。
そういう風に、自分の短所と思っていた部分に一つ一つ光を当てていく。
私をここまで運んできてくれたのは、自分が短所だと思っていたところだったのだということに気付く。
今まで、自分は常に何かが足りないと思いながら生きてきた。
足りていないものを手に入れれば完璧になれると思っていたけど、ないものを掲げて人と比べると永遠に不足に苦しんで生きていくことになる。
だからこそ、今持っているものに光を当ててみることが必要なのだと思う。
そこには、自分しか持っていないものが、気付いてもらえるのを待っていたりする。
だから、「自分に自信がない」と悩んでいる人に今の私はあえて言いたい。
自信がないことの負の側面はある。だけど、自信がないことの良い側面もある、と。
苦手分野やコンプレックスは誰にでもあるし、それを解消するために努力した結果それを克服することは素晴らしいことだと思う。
一方で、人の苦手なことやコンプレックスは時にその人自身の魅力となる時もある。
自分について無駄に考えた時間とエネルギーがあれば、この年になるまでに何ができただろう。そう思いながらも、この経験をしていなければ語れない薄暗さがことがあると信じている。
自分自身の影の部分に光を当ててみて、本当は愛すべき可愛さじゃないかどうか、
見返してみてほしい。
より良い自分になりたくて必死に頑張ってきたもうひとりの自分が変わる必要が本当にあることなんて、そんなにないのだと私は思っている。
ただの雑記
今日は立冬らしい。
とーちゃんの誕生日。
生きていれば71歳だった。70代と聞くと一気におじいちゃん感が出るよね。
わたし、三人兄弟の末っ子だからな。
今まで11/7が立冬ということすら知らなかった。
とーちゃんは知ってたんだろうか?
わたしに、人の痛みに敏感になりなさいと教えてくれたとーちゃん。
大人になってから、唯一、言葉に出して教えてもらったことかもしれない。
でも、人の痛みに敏感になるということは、自分の痛みに鈍感になることではないよね、と思うよ。
わたしもわたしなりにいろいろ経験してそう思う。とーちゃんは、なんて答えるんだろう?すこし黙って、お酒を飲むのかな。
実は、本音は何を考えていたのか、大人になってもわからないところがあるんだけど。
人って、今のわたしが思うより明瞭ではなくて、矛盾していて、かつ自覚的でなく、そうやって、各々が生きている気がする。
肉体を離れて、今とーちゃんはどうしてるかな。
もしかして、もう他の人に生まれ変わってるのかもしれないな。
なんせ、もう1年が経つ。あれから。
たった3ヶ月前の自分にだって、今の自分の状況が想像できただろうか?
否、出来なかったと思う。
いろいろなことが変わった。
何より、自分が変わった。
というより、変わらないことを受け入れたと行った方が良いのかもしれない。
次の誕生日で29歳になる。
20代最後の年がもう少しで始まる。
新年の手前、今は助走期間というか、
誰にとっても11月はいろいろな前触れが起こる時期なんじゃないかと思う。
人生が始まっていく気がしてる。
自分の人生を生きていく感覚。
自由と責任。自分でいる勇気。
眠くなってきた。
明日は来るのだ。
明日のことは明日に任せよう。
では、おやすみなさい。
カラダは全て知っている
最後にゆっくり自分の体と会話したのはいつだろう。
耳は高校生から、喉の締め付け、吐き気は20代になってから。
起き上がれないような不調や耐えられない痛みなら病院に行くし、その症状を消すために薬を飲む。
だけど、誰にだって病院に行くほどでもない、症状が出た時にはじめて思いだすような、そんな不調がひとつやふたつあるのではないだろうか。
最近、立て付けの悪くなった網戸をそのままにするように、いっぱいになったゴミ箱にさらに力を押し込めてゴミを捨てるようにして生きていた節があることに気付かされる出来事が、立て続けにあった。
今日は、その話をしたいと思う。
朝の満員電車や、窓のない部屋、人混みの雑踏、聞きたくない話題。そういう環境に身を置くと、昔から必ずと言っていいほど、右耳が塞がれたような感覚になり、自分の呼吸や声がこもって聞こえる症状が出た。驚くほど自分の声や呼吸の音が暴力的な大きさになるので、人と話すことが辛い。
あまりにも長い付き合いすぎて、時折その症状が出ても「またか」と、ただの煩わしい存在だと思っていたのだけど、その日ヨガのワークショップに参加した時に、クラスの中で目を閉じて深呼吸をしている時、たまたまその症状が出た。
またかと思いながらも深呼吸を続ける。
吸って、吐く。
また吸って、吐く。
大地にそよぐような風の音が、自分の中に聞こえる。
すると、自然と頭に「この症状が出ていると、自分の呼吸が聞こえすぎるくらい聞こえるなぁ」という考えが浮かぶ。
あれ。ふと、もしかしてこの症状は、自分の中の音を聴かせるために起こっているものじゃないのかと思い立つ。聴いて!!!!という叫びに似たもの。
ずっと煩わしく思っていたけど、もしかして、自分に合わない環境に身を置いた時に、警笛を鳴らし続けてきてくれたんじゃないか?
自分の内側を、ちゃんと聞いて、と。
もしそうだとしたら、ここ10数年、私が辛い環境に身を置いた時にどうにかならないように、私の耳が敢えてそうしてくれていたということじゃないか?
どうして今まで気付かなかったのだろうと不思議に思いながら、自然と涙が頬を伝うのを感じていた。
この右耳は、ずっと私を守ってきてくれたんだ。
なのに、ずっと気付かず、ネガティブなイメージをつけて、ごめん。ごめんね。ありがとう。
そう心の中で唱えた瞬間、私の耳のこもりは消えた。
また別の日。
整体のモニターを受けた時の話。
その日、仕事の繋がりからの縁での知り合いの方の整体のモニターを受けるために電車で向かう私の胸中は、不安でいっぱいだった。
私は今、自身の今後について選択を迫られるような岐路にいる。したい選択をすることで失うものに意識がいってしまい、なかなか選択する勇気が持てないでいた私はそんな自分が嫌で、その嫌な気分を引きずっていたのだった。
不安な気持ちをなかったことにしたくなくて、意識的に胸の前に手を当てる。徐々に暖かくなって、不安が少し溶ける。
整体の前に自身の不調や心身の状況についてお話ししながら、長年喉の締め付けや、常に舌に力が入っていて、脱力した感覚がないことも伝える。
きっと言いたいことを飲み込む癖があることが原因だと思うとお話しすると、今の自分を見透かされたように、「胸や喉に不調を感じるなら、本当の気持ちが固く閉ざされてしまっていたりするのかもしれないね」と言われた。
喉や胸が固く閉じていると、肩も内側に入ってきて姿勢も悪くなりやすいとのことだった。
何よりも、そんな喉や胸の不調を煩わしく思っていた自分に気付く。
右耳と同じように、私の喉は時に誰かを守りたくて、時に自分より誰かを優先して閉じていっていた。周りの幸せを、自分なりに願って生きてきた結果だったと思った。
喉に手を当てて、ありがとう、と伝える。
その後、不思議なくらい自然に、私は自分の本当の気持ちについて話し始めていた。
私の喉は胸は開いていて、体は軽かった。
頭を経由することなく、感じていることをそのままに話す。
体にも感情は溜まるということを教えてもらった。
怒りが、積み重なって溜まっていたこともわかった。思い当たる節もある。相手のことを考えすぎて、自分が飲み込んだあの時の怒り。
私たちの体の不調は警笛のために敢えてそのように反応してくれていることがあるらしい。
不調を感じている部分にこそ手を当てよう。
なぜそうなっているか、聞いてみよう。
心も体もそうなるべくしてそうなっている。
だから、どんな感覚もなかったことにしない。
ネガティブな部分を担ってくれている自分の心を、体を、見ないふりをすればするほど、気付いて!と呼びかけてくるから。
あなたの体に不調はありますか?
何を伝えたくて、そこにいてくれると思いますか?
助けてください、箱ください
「あー、宅急便は、そもそも梱包して持って来てもらわないと。梱包用に差し上げるとしたら、ゴミ袋くらいですよ」
そのコンビニのおばちゃんは、申し訳なさそうに、そして「普通送ってほしい荷物は自分でダンボールに入れてくるでしょう」と、世間知らずの人間だと哀れむような、絶妙な笑顔で私をレジから退けた。
駅から2分のコンビニで、彼氏との待ち合わせに間に合うための電車の出発時刻まで残り5分の出来事だった。
某オークションサイトで先日廃業した家業で取り扱っていた在庫のタイムレコーダー(時給を計算するために勤怠の打刻をする、あの機械だ)が売れたのはその前夜のことだった。
そもそもは落札者が宛名を知らせずに配送を依頼する、匿名配送希望だと気付かなかったことがことの発端である。
匿名配送は特定の業者を使って荷物を配送する方法なので、コンビニからしか手続きが出来ないのだ。
図らずもはじめは郵便局で箱を購入し、直後にそのことに気付きすでにガムテープを剥がして郵便局の方に箱の廃棄をお願いした後、その足でコンビニに向かったわたしを待っていた出来事が前述のやりとりである。
すごすごとコンビニを出たわたしは、
おまけにつけたタイムカードが100枚入った小さな箱と、簡易な箱に包装されたタイムレコーダー約3kgを抱えて、今優先すべき判断は何かを考える。
自宅に戻るには徒歩20分。
電車の出発時刻が迫る。
約束の時間を守るために取り敢えずどこかに預けておこうという発想に至ったわたしは、観光地である駅前の大量のコインロッカーに預けようと考える。
しかし。
日曜日の観光地の駅前コインロッカーは予想以上に荷物を抱え込んで、500円玉しか持っておらず400円の料金に支払いにまごついている間に、虚しく最後の空きの1つが埋まっていった。
「どうしよう・・・」
箱が・・・欲しい、箱が欲しい、箱が欲しい。
こんなにも人生で箱を欲したことはあっただろうか。へなへなと駅前のベンチに座る。
たかが箱、されど箱。
箱がないとここから動けないのだ。
座り込んだベンチで、ぼーっと考える。
わたしはいつも自分だけの力で解決しようとしてきた。こんな風にいろんなミスが重なって、
たかが箱がないだけで途方にくれているなんて、
これで本当に大人と言えるのか?
謎の反省会を始めかけた時。
「募金にご協力をお願いします!」と、ひとり大声で呼びかける若者が目に入る。施設で暮らす子供たちの進学費用のための募金運動のようだった。
観光地に浮き足立つ人々が、彼の前を素通りする。が、彼は気に止める様子もなく、もはや「叫ぶ」と表現した方が正しいだろうというくらいに、「親がいないことで教育の機会を得られない子どもたちに、募金をお願いします!」と、誰ともない空間に向かって投げかける。
彼自身のためではないだろう。
施設出身者の方か、あるいは施設関係者の方か。
そんなことはどうでも良くて、ただ、誰かのために必死になっている姿はその時の私の胸を打った。
人前で大声で呼びかけるのは、勇気がいる。
日曜日の観光地での募金の声かけは、多くの人が足を止めてくれるわけでもないだろう。
コインロッカーに入る機会を失った500円玉を募金箱に入れた私の目にスーパーが映る。
そうだ、スーパーにならダンボールがあるかもしれない。そう思い立ち、同時にそこに向かう途中、わたしの頭の中は「誰かにお願いごとをする、助けてほしい」と言う緊張を感じる。
背中に「募金をお願いします!」という声をエールのように受けながら、スーパーに隣接した花屋の店員さんにきいてみる。
「ダンボール、余ってませんか?」
「あぁ。うちはダンボールは使わないんですよ。でも、スーパーの管理事務所に行けばあるかもしれませんね」
今度はスーパーの管理事務所に行き尋ねる。
「ダンボール、もらえたりしませんか?」
「ダンボールが欲しいなら、2階の青果品コーナーに置いてますよ」
2階のサービスカウンターで尋ねる。
「ダンボール、ここでもらえたりしますか?」
「ああ、ありますよ。ご案内しましょうか」
10分後、わたしはふじりんごと書かれた大きなダンボールを手にスーパーから出た。
中のタイムレコーダーとタイムカードには不釣り合いな大きさだ。
花屋を横切る。
「ダンボール、もらえました!ありがとう」
そう伝えてコンビニに戻ると、コンビニのおばちゃんは「あら!よかったわねぇ」なんて言いながら手際よく発送準備を進めてくれた。
約束には15分遅れ。
だけど、今日は良い日かもしれない。
「助けて」に救われ、また「助けて」と言うことで救われたからだ。