他人と生きるということ
わかってもらえない。受け止めてもらえないと感じたことのある人はどれくらいいるんだろう。
誰かと会って、相手にわかってもらえない、わかろうとしてもらえないと感じたその時、相手もまた同じことを思っていることは、結構多いんだと思う。
理解されたいというのは人間の根本的欲求で、ネットでググると承認欲求にカテゴライズされるみたい。承認欲求。認めてほしいという想い。
それらを外に求めるのは、自分が自分を理解する、認めることが出来ていないからであり、結局は自己肯定、いわゆる自分のどんな思考や感情もそのままに受け入れることなのかもしれない。
となると、理解してほしい!という欲求もまた悪いものではなく、健全な欲求であるということだ。
そして、外に求めても満たされにくい欲求でもあると思う。数字や地位といった記号的な承認もまた、その特徴として永遠に他者との比較が続くということでもあるし、それはあくまで記号に対してであって、本質的な自分自身じゃないからだ。
自分以外の人々が、他者を認めてあげたくて仕方ないなら別だ。供給が需要を上回ってたら、もっとかんたんに手に入れられるはずだ。
でも、そうじゃない。みんな認めてほしいし、大切にされたいし、無条件で肯定してほしい。
自分で認めることが出来て、あるいは親密な関係の誰かから認めてもらえる状況があってはじめて、私たちの耳には誰かの認めてほしい、が届くのだと思う。そして認められてる実感があってはじめて、他者を認めることが出来るのだと思う。
シンプルに認めてほしいんです!って言えれば楽だけど、そんなに素直になれたら誰も苦労しない。
たくさんの人が、自分で自分を認めることが出来ないが故に、外にそれを求めているのかもしれない。
ただ、他者に期待するということは、思い通りにならなかったときに傷付くことでもある。
相手にこう言ってほしいと思っているのに期待した言葉が出なかった時、裏切られた気持ちになる。
自分の意思で好きでやっているはずなのに、気付いたらそんな被害者意識が顔を出す。
無意識の自己犠牲から、それはいつも始まると思う。
こんなことをわかったように書きながらも、わたしの中にも認めてほしい!なんでわかってくれないの!と叫ぶひーちゃんがいて、今日は数十年ぶりにそれが爆発した。
本当に驚いた。だって、爆発するということは、ためにためた感情がいたということだから。
いろいろな感情に気付くことができるようになったと思っていたけど、まだまだ無意識に押し込めていた感情はあったみたい。
そして今回吹き出したのは、年季の入った、むかーーしからのものだった。
小中学校時代の経験を通して、感情的になることに対してとても抵抗があったし、すごく自制心を持って律してきたつもり。
その私が、目の前にいる人に、声が震えるくらい怒って、大きな声で泣いて、
なんでいつもわたしばっかり鈍感な人間に振り回されるんだ!!!!!
いい加減にしろ!!!!
自分の事以外の人のこと少しは考えろ!!!
って。。
止まらない涙をぬぐいながら、どこか冷静に、
あー、このわたしが感情的になれたんだなぁとか、
ずっといい子 頼れる子であろうとしていたんだなぁ
頼まれたわけじゃないけど、そうせざるを得ない環境にずっと置かれてきたなぁってことを考えていた。
そうして帰ってきた反応は、相手の反省と変化だったのだ。
ずっと、ネガティブな感情は相手にぶつけてはいけないと思っていた。
嫌な気持ちにさせるだけだと。
そんな人間は愛されないぞ、と。
頭では人同士 生身でぶつかり合うことで相互に影響が出るのはわかっていたし、それ自体にいいもわるいもないとわかっていたけど
心の底から、どんな結果を得たいか、とか相手がどう思うかってことを考えずにただそのままの感情をぶつけるということは、記憶がある中では初めてだった。
最近、仕事を通じて頭ではなく心と体を使う練習が多くなったことも要因の1つだと思うけど、
今まで、自分の中で勝手に結論づけて黙ることで衝突をさけてきた自分が、考えずに人にぶつかることが出来たのは、とてもとても大きな進歩だったと思う。
人は、相手がどう思っているか、言われて初めて気付く、鈍感な生き物だ。それどころか、言われなければ勝手にこうだろうという誤解すらする。
私たちはテレパシーが出来ない。
だから言葉を使う。
言葉それ自体に善悪はない。
だけど、使う人間によって同じ言葉でも定義やイメージが違ったりして、よく誤解が生まれる。
同じ言葉でも言う人、タイミングによって、全く違う意味を持つ。
意思疎通というのは、とても、とても難しい。
多くの人が人間関係に悩む所以はそれだと言えるし、逆に人には伝わらない、という前提にたって言葉を使う人こそ、意思疎通がしやすいのだと思う。
非言語が得意な人は、言語が苦手故に表情や仕草を読み取る機能が伸びたのかもしれない。
芸に精通してる人は、言葉ではないコミュニケーション方法を選んだのかもしれない。
本やラジオだって、何かのプロがそれを伝える道具として本を出した場合、言葉の扱いは素人かもしれないし、
逆に文豪、作家、編集者のひとたちというのは、言葉を使って何かを伝えるプロだということだ。
話が随分とそれてしまったけれど、
大事なのは、
人はみんな違う言語で話しているからわかりあえないこと
人と付き合うためにはまず自分とうまく付き合うこと
このふたつが前提にあり
故に相手が察することを期待した曖昧な態度や言葉は汲み取られないことの方が多い
ともすれば、無駄にがっかりするよりも、
はっきりと自分の感情や意志を自覚し、責任を持って伝える
時には感情的になり衝突したとしても、それが他人と生きていく、つまり社会でという上での個人の責任なのではないかと思う
要は我慢してても自分が辛いだけだし、なんなら相手から気付くチャンスを奪っている可能性もあるということ。
衝突は悪いことではなかったのだなぁ。
衝突なくして、理解なし。笑
自己主張の能力は、鍛えられる。
このちからがついたとき、自ずと嫌いなこと好きなことを人に理解が得やすくなるし、
結果好きな人やことが近くにある状態をつくれるっていう。
今日の感情は大切なことに気付かせてくれたなぁ。
感謝だなぁ。