母になる事への不安

お風呂につかっていたら、唐突に思いついたことがあるので記録しておく。

漠然と、母親になる事への不安がある。その不安がなんなのかということを考えて見た。不快になる人もいるかもしれないが、あくまでわたしの場合なので、と前置きしておく。

 

出産ラッシュだ。

次々と友人に子どもが生まれていく。

子どもが生まれると、産んだ母親に対して、みんなお疲れ様、おめでとうと声をかける。

 

おめでとうという言葉は、何に対しての賛辞なのか、考え込んでしまう。

愛する人の子を産んだ事だろうか。それとも、女性として備わった機能の役割を無事果たせたことだろうか。お腹に子どもがいる時から、自分とともに育まれてきた命と対面できたことだろうか。命そのものに対する祝福か。そのどれもなのだと思う。

 

きっと出来たら死ぬほど大切にするのだと思う。

全力で守りたいと思うのだと思う。なのに、この産む、という決断に際してのハードルの高さはなんなんだろう。

 

 

わたしは、子どもを生む事を、怖いと思う。同時に、出来ないかもしれないと思う。

子どもが出来なかった女性はわたしの周りにたくさんいる。

常に出来ないかもしれない、と頭で思いながら、出来た時の事も考えている。

体内で子どもが育つということに関して、自分が今まで体に溜めてきた毒を一手に引き受けてしまうのではないかという恐怖がある。

アトピーのあの苦しみや喘息のあの苦しみは味あわせたくない。

必ず遺伝するわけではないけれど、その可能性はかなり高い。

果たして健康な子が生まれるのだろうか。

 

それ以上に、子どもが母親の影響を多いに受けて育つ生き物である事を、怖く思っている。女は、子どもを産むと、母になる。

子どもを育てるのは、人生の一大プロジェクトだ。責任は重い。

だけどその割に参入障壁はとても低くて、母親になる条件は生殖機能が付いている事だけだ。

 

母になった瞬間に、生きがいを見つけたようになる女性は多い。

すごく嫌な言い方をすると、子どもを自分の人生の楽しみに無意識にすり替えているように見える女性も多い。その無自覚さに、とても不安を覚える。

母親の影響を強く受けて育つのに、自身が自身の無自覚さを自覚していなくていいのか?と。

子どもの話題で無邪気に盛り上がる女性を見て、その無邪気さや無自覚さが将来子どもを不幸にするかもしれないのだと、勝手な心配を覚える。余計のお世話だ。

 

母親同士のコミュニティを批判しているわけじゃない。その苦労や孤独は責任の重さと比例し、共感できる人同士の貴重さは計り知れず、共感できる人物はものすごく貴重だ。

 

言葉を選ばずにいうと、一人の人間としてのベースができていない人間が、人間を育てることがあって良いのだろうか、と考えてしまう。

 

ここまで書いていて、多くの人は考えすぎだというのだろうと思う。

というか、では、どういう人が一人の人間としてベースが出来ているというのだろうか。

情緒が安定している事か。経済的に自立している事か。自己実現をしている事か。

自分に不足しているものを子どもに背負わせないためには、自分に不足がない、あるいは不足と思える事をやりきった、と言えるレベルまで経験している事か。

 

そして、わたし自身、考えたからといって結果わたしに(子どもが出来たとしたら)子どもが幸せになる子育てができるとは限らない。というか、天真爛漫なお母さんの元で育った子どもの方が全然幸せになりそうだ。

こんな理屈をこねくり回す母親の元で育つ子どもは一体どんな影響を受けるんだろう。恐ろしい。

 

多分、わたしの母、という人物像に対しての理想の高さが要因にあるんだと思う。

そもそも、成熟していなければ母親になってはいけないのか。

完璧な母親はいない。だけど、なぜあなたは子どもを産んでしまったのだ、というケースは、ニュースを見ても、そして前職の現場でも見てきた。

 

そもそも、その成熟が最高に達する時、当然女性の生殖機能はすでに役割を終えている。

 

母親も子どもとともに成長していければ良いと、言われる。そうだと思う。だけど、それは子育てに関する技術やマインド、あるあるアクシデントに対しての習熟度に関しての話で、母親自身の価値観や根本的な人間性に関することではない気がする。(療育の世界では、発達障害のあるお子さんを持った両親のための教育プログラム、ペアレントレーニングなるものがある。その中で価値観を根本から揺るがされることもあると思う、が、あくまでそれは子どもがマイノリティな要素を持って生まれたことで、今までの当たり前が覆されたからであって、世の中のマジョリティの親に当たる人たちに子育ての中で価値観が揺るがされることは起こりにくい)

 

家族が欲しかったから、子どもを作った。そうやって脈々と子孫繁栄を続けていくのが世の常だ。別に考えなくていいならそれが幸せなのだろうと思う。

 

産む、産まないの選択肢が出来たからか。母親のモデルが多様になったからか。

近くで母親が子育てをしているのを、ずっと見てきた末っ子だからか。

そしてそれは幸せなことだけではなく、死ぬまで責任を抱えなくてはいけない事であると自分で見てきたからか。子育てに対して、あの時もっとこうしてあげればよかった(のに自分の余裕がなくて出来なかった)と後悔を残している母親を見ていて、してもらったことの方が大部分なのだから、そんなに自分を責めなくても良いのに、とも思う。だけど、兄弟を見ていて、適切なケアが出来ていれば結果は違かったのかもしれない、とも思う。

 

起こった事をいっても仕方ないのだけれど、たぶんそれを繰り替えさないようにという強い自制心が働いている気がする。そもそもそういう自己批判的な部分に見事に影響をうけ、この思考が出来ているのだと感じる。わたしの子どもも、自己批判的なこどもに育つのだろうか。こわいぞ。

 

書いていて、結局子どもも一人の人間であり、一人の人間と対峙できる母親になりたいと思っているのかもしれない。無意識に相手に期待したり、自分と相手の境界線が引けずに自分の問題を子どもに投影したりする母親にはなりたくないと思う。ふと自分の母親を思い返して、そういったところがまるでない母親だったと感じる。一方で、子育てというのは時境界線を超えてでも、親が子どもを守らなくてはいけない時がある。

相手の意思を尊重しすぎるのも考えものだ。

 

ここまでつらつら書いてきて思うのは、自分の世界を持っていたい。子育てとは別に。ということ。

わたしはたぶん子どもを産み育てる過程の中で、他の母親がとるに足らないと笑うことに悩みすぎるような気がする。あまつさえ子どもに遠慮し、言いたい事や感情をぶつけることを避ける母親になるリスクが高い。

これはもう一定性格だから仕方ない。だからこそ、その世界観だけに浸からないように、そして自分の性格を理解した上で偏らないよう、意識的でいたいと思う。

 

 

人生には何があるかわからない。考えるのもいいけど、楽しむことが出来なければあまり意味がない。

 

 

そして、書きながら、父親になる参入障壁の低さも同じだなと思った。同様に父親になることにあたっても、自己理解は必須だと思った。無意識に子育てのメインの責任があるように感じているのはわたしの思い込みだ。