思考は大体の場合バグっている

何が書きたいのかわからないまま書き始めるのは、何かを伝えたいわけではなくて、ただ単に日記を公開することでわたしの考えたことすなわちわたしを知って欲しいからなんだと思ってる。

 

誰かに自分の話をするのが苦手だと話したら、無意識に自分の感情を抑制する癖がコミュニケーションや人付き合いに表れてるのかもよって話になり、そういえば、私はさみしいとかあいたいとか、あまり思わないのもあるけど言わないことが当たり前と思っている節があるなと、ふと思う。

考えていることを、理解して欲しい気持ちはある。でもそれは特定の誰かというよりも、空中に投げて誰かかそれを受け取って投げ返してくれたら嬉しいというものなのかもしれない。だからブログという形をとってこんなこと書いているわけか。

まぁでも、読んでいて欲しい人はいるから、その人らということなんだろう。多分。

 

自分はこんなだけど、理想とする女性像は、違うのである。例えばcakesとかnoteとかは、トップページからサーフィンを始めるわけではなくて、大体の場合は、ツイッターで好きな感じのつぶやき(だいたいはニュートラルな視点で、優しく、でも知的に、わかりやすく、幸せに働くにはとか子育てするにはとか 女性目線で語ってくれる文筆家というの?ライター?の人が多い)をしている人やその人が属するコミュニティのアカウントでリツイートされたものから人つながりで知っていき、記事を読んでファンになり、遡って読むことをする。

 

この人の紡ぐ言葉を読みたい、みたいな。この人のメッセージを、自分に向けてだと思って読める人が、一定数、いる。

 

ここまで書いて、やっぱりわかりやすい構成をつくるとか 読み手がイメージしやすいように具体的に書くとか そういうことはスキルなんだと思う。

 

我ながら何を書いてるのかわからないこの日記も、まさに自分の脳内を表していて、整理しないことには、どんどん思考がいろんなところにいって結局何を考えてたんだっけ?何をはっきりさせたかったんだっけ?ってなるのだよ。

 

書きたいこと、をコンパクトに整理してみるトレーニングは、自分の脳内を整理することにも繋がりそうだな。。より解像度の高い思考に。というのか。

最近、1人で考えていても、気付きとか思考の深化は難しいとしみじみ思う。よくよく考えたら、人とコミュニケーションをとる意味って、そこにわたしの場合はあるのかもしれない。

 

 

ここまで書いて、わたしは本当は誰かに伝えてレスポンスも欲しいんだなと感じた。どーしようかなぁ。これからのコミュニケーションについて考える。

 

 

 

 

 

 

不満から読み解く仕事観

傷病手当金って、給与の2/3しか出ないんだけど(超絶有難いのはもちろんなんだけど)、自由時間は15倍になったからお金がなんせ足りないもので、在宅ワークでできる仕事を探してみた。

 

多いのは、私が出来ることの中だと事務代行(大量手間系)、初心者OK量産記事系、その他単価が低いアンケート系

 

で、感想としては(こんなに苦痛そうな作業して、この単価か・・・無理・・)って感じ

 

①当たり前ながら誰でも出来る仕事ほど報酬が低い。

②特定の資格やITの知識スキルが求められるものは相対的に高い。

 

でやっぱり思うのは、匿名でやる仕事というのはその仕事の質でしか判断ができないからそういう報酬形態で当たり前で。信頼を作るコツコツやスタイルを実績で表してこそでしかより高い報酬をもらえる道はない。そして知識スキルに依存していたり、あるつもりで代名詞化できていないもの、結構汎用性が低いスキルは需要がなくなるとやばい

 

 

募集一覧を見ていてもまじでつまらなくて結局

・デートのアイディアください というものに応募してみただけでやめてしまった。これは楽しかったw

 

でこの作業を通してわかったことを書いておく

 

・収入源がひとつだとその収入源が途絶えた時、減った時に危機感を初めて感じる 経済的な依存先がひとつということへの危機感

 

・構造の中でのこういう枠組みの中でやってください、という作業が苦手。ルール、マニュアル、苦手。自分がやる意味ないじゃんって思ったらやらなくていいやの思考になる

困りごとに対してのソリューションを考える、アイディアを出すのは楽しい 自由な発想でいいし、オリジナリティが出せる気がするから

 

・やったところで誰の何が変わるの?という作業の先の利益(価値的な)が見えない仕事は無理

意味を感じない仕事の報酬=我慢料。と捉えてしまう。我慢料が高い仕事もあるよね(水商売とか)

 

・細かい金額をみて経験するの嫌い できればあまりお金のこと考えて仕事したくない、というかできない 想像力の欠如w

 

 

 

結論 どこにモチベーションを感じるのかという話

 

・自分だから出来ると思える仕事がしたい(経験、生まれ持っているもの、得手不得手) 仕事と生き方を別々にしない

仕事があって私があるんじゃなくて私があって仕事がある的な

私の大切にしているもの(生き心地)を殺さなくて良い仕事

 

①サービスを届ける相手の顔が直接的じゃなくても見える

あと、力になれると思う人とそうじゃない人を選べると良い(仕事選びたい)

 

②問題解決的な原因分析・一緒に考えるのは多分好き(生き方・精神的なものである可能性が高い)

 

③人との繋がりは濃すぎない方が良い 困っている度が重すぎると継続的な関わりになるけど結構しんどいし依存されがちになるの苦手

 

④好きな服着たい、ビーサンで仕事したい、香水つけたい、好きな色のネイルしたい、早起きしたくない、決まった時間に動きたくない、毎日同じところに行きたくない、毎日同じ人と働きたくない、(現職で全部我慢してたことだな・・・よく頑張ったな私)

 

 

以上、自己分析完了w

ていうか、自分の分析なんて本当何かの経験を通さないと自分らしくいるために大事なことなんてわからないよな。

価値主義の時代においてどう生きるか、考えるのが楽しいと、思えることが嬉しい。

 

 

 

Nのために

湊かなえ原作のドラマを見た。

湊かなえの小説は家族揃って好きだけど

Nのためには ドラマではじめてその物語を知った。

 

わたしは神奈川県で生まれて、中学生くらいの時は田舎独特の多少の抑圧は感じたことがあったけれども、いわゆる主人公の女の子のような どうしようもない悲しい現実を前に逃げられない境遇、環境(お金とか、田舎の島であることとか、理想とはかけ離れた家族とか)にぶちあたり、歯を食いしばって生きてきたことは無いと思う。

 

主人公のの女の子のセリフとして、下は見ない、上を向く。という言葉が何回が出てくるのだけど、

さて、小説とはいえども 彼女のような境遇におかれた人は現代社会にいて もしかしたら 近くに 普通の大人として あるいはきらきらした人生を送っているように見えるその人なのかもしれない。

 

なにが言いたいかというと 経験は その人だけのものであって 経験から生まれた考え方を侵すことは出来ないということ。

自分の思う正しさを押し付けることは その人の過去に土足で入っていくことにもなりかねないんだな と感じた。

それがたとえ違和感を覚えるものであっても。

相容れない人同士は おそらく理解しあえる経験が重ならない人たちなのかもしれない。

今の会社は多様性という言葉が共通言語として使われていて

その言葉に対してわたしは ジェンダーや国籍や人種、障害のあるなし、特性の違い 等と理解していたけど本当は島国である日本の中だって、それぞれ侵せない経験があって成り立つ 全ての人を尊重することが多様性の一つとも言えるような気がする。

相容れなさを受け入れること。

正しさは時に 何にもならないということ。

そこからはじめるということは、相手を尊重するとともに、誰にも侵せない自分自身をつくりあげるものを尊重するということなんじゃないか。

全ての人とわかりあうことは無理だ。でも、縁あって周りにいる人をいかに尊ぶかというところからはじめたい。

 

苦しみはいつの時代にもついてまわる。

100年前は飢餓、現代は情報操作から生まれた序列による苦しみ、未来はなんだろうか。いつになったら愛で包まれるのか。そういう節目に生きていると思う。

 

今は幸せでもいた自分に降りかかるかわからない。

どんなに幸せそうに見えても 傷ついていないとは限らない。

本当に生きてる間は修行だなと思う。

輪廻転生の運命に生まれた限り、自分のこと以上に大切に思う人を見つけて大切に愛を育むことは、

意味がないようでいて、だからこそすごく尊いことなんじゃないかと思える。

 

 

とても良くできた物語だった。

今のタイミングで出会ったことの意味を考えながら、今度は原作を読むのだ。究極の愛とは何かを、わたしも探す。

 

 

 

 

 

残存

ひとつの物語が終わって、

またひとつの物語が終わる。

 

それは自然の摂理で抗えないものだけど

今日はやっぱりまだわたしは

無意識に執着していたり

今じゃなくて過去に没入していたりするんだなってことを気付くことがあった

 

過去に一緒にいた人が

結婚したと聞いた

これ以上嬉しいことはないはずなのに

例えば今がどんなに幸せでも

途端にないもの探しや

知っても何にもならない事をさらに粗探しして自分をいたぶるようなことをし始める

思考や感情に翻弄されて。

 

大切なのは いまであるということを

取り返しのつかない行動をしてしまう前に気付かなくてはいけない

またひとつ 目の前にいてくれる人を傷つける前に

気付かなくてはいけない

 

自分の人生を生きる

いや 生命がわたしを生きる

そういう意味で 長年の呪縛から

解放された日だったのかもしれない

もう

不幸にしたんじゃないか とか

今も生きづらいんじゃないかとか

そういう

人に対して 影響を与えられるなんて

奢った考え方は辞めたいな

 

そして

その弱さに惚れながらも

誰よりもその人を信じれるような

一緒にいて 力が湧いてくるような

そんな関わり方を していきたいな

 

心配されてるよりも

信頼されてる方がよっぽど力が湧いてくるから。

信じて 頼りたいと思えるような人になりたいし

信じ 頼ることができる人でありたい

 

最近のマイブームの言葉は

「その身のままで」

その身のままで 恋をして

その身のままで 発散して

その身のままで 時には傷ついて

また己の力で立ち上がれるようになりたい

 

 

中秋の名月は9/24

香道の教室にて、香り遊びを楽しみながら、

いつぞやの秋の月に想いを馳せる

いつの時代も人は月を見上げて

その自然の大きさに感服しながらも

時にはたったひとりを思い浮かべたら

時には大きな世界に ただ圧倒されて

そうやって巡り巡ってきたんだろうな

 

 

 

すべては起こるべくして起きている

今日は月 1度のメンタルクリニックの受診だった。

薬は出てないから、認知行動療法にあたる精神療法という名目で 日々感じたことを書き留めて それを医者に見せてフィードバックをもらうということをしてもらう、通称交換日記

 

この交換日記の効果はわたしにはとても効果的で

書くというプロセスを通じて自分を客観視したり

フィードバックを通じて 自分の認知の偏りに気付いたり なんだかんだ はじめて4ヶ月経過したけど

 

書くという行為自体がこのブログと同様 今は 生活の中での習慣というかないと困るような位置付けになるまでに 大切なことになった。

 

そもそも、人間の頭の中には意識無意識含めて膨大な思考感情が渦巻いていて  それを口に出すということは 自分の中の情報を自分で編集してアウトプットするということなのだけど、

わたしはとてもそれが昔から苦手だ。いきなり話せと言われても 頭の中で情報を統合することもさることながら

話すトピックか否か考えすぎてしまったり 相手に話すべきことかどうか迷ったりしてしまう警戒心も相乗効果で 信頼しきれていない人や前後の文脈を知らない人にいきなり話せといわれても「。。。まぁわたしのことはそんな話すことでもないですし」とテキトーに切り上げるのが一番楽であり、生きる手段でもあった。

 

感情を表に出にくい人でも 健やかに生きている人はいる。ただわたしの場合は感情を表に出すか出さないか というよりも このもやもやの正体がなんなのか 言語化出来ないことで自分の中の感情と認めることが出来なかったことが 感情を出せず、ストレスを溜めに溜めた要因だった。

 

そういう経緯もあって

書き始めた時は そもそも何を書いて良いかわからなかったり 読み手を意識しすぎてしまったりして

なかなか自分の中身をシンプルに炙りだせない時期もあったけど、

書き出したものを読み返す、同じ単語が出て来てないか見直す、フィードバックをもらう、揺さぶられる感情や思考に出会ったらまず書き出す、というプロセスを通じて、自分が何を考えているのか、何を感じているのか ということを よりシンプルに観察できるようになってきたと思う。

 

感じてはいけない感情はない、という言葉は精神科医名越康文先生の言葉だと以前 どこかで見たけれど、否定も肯定もせず ただ そこに反応があるということを認めるっていうことが、いかに精神衛生上必要なのかっていうことを自分の体を使って学んだ気分。

 

ということを踏まえて、

あー うつ になって良かった

あー 順調に仕事がいかなくて良かった

すべては起こるべくして起きてるんだな

自信がないのも

言葉にしづらいのも

すべて 意味付けをしてるのはわたしだったと

気付くことができて良かった、と思うのです

 

まぁ 正直 4ヶ月休んで 服薬なしで良くなるのは鬱じゃないけどな。鬱ってもっとすんげーものだぞ と

今まで見てきた人を見ていて

気軽にうつ とかいうものでもないなと最近思うんだけど。

 

流されて生きていく。

 

 

 

 

ニュウ アース

エックハルトトールのニューアース

ヴィパッサナ で出会ったダライ・ラマに教えてもらった本を少しづつ 読み進めているのだけど

中盤になって目から鱗の言葉の連続です

 

この本を理解できる知性、というか前提条件見たいなものが多くあるような気がして

この世界観は 理解できるタイミングに来ている人と

そうでない人にわかれるようなきがしている。

あなたが命を生きてるんじゃない、生命があなたを生きているのである。

自分らしくいることを意識し始めた瞬間にもうエゴが どうしたら自分らしくいれるのか?と考え始めている、と。

思えば HOW TOを求めてきた人生だった。

求めるから 手に入らない

探すから 見つからない

だいたいのものはすでに自分の中にある ということに気付くまでが長い道のりだった そして気付いたことでこれが道半ばということを 知る

 

すべての人間の想像力から作られた役割や思い込み、概念や強迫観念めいたもの すべて すべてから解放され

自分自身が創り出している地獄という エゴの為せる技を 自覚すること

 

このままでいい、ただ自覚的であれ、ということ。

 

そうしてスクワットチャレンジ29日目の夜が更けていく。

 

親しい人にしか見せていないんだけど

スクワットって本当すごいんだね。

太ももにメリハリができた気がするし

お尻が上がったからか足が長くなったような気がするし

やり始めると 腰も ふくらはぎも 背中も くびれも

と自分の体を支配する感覚がくせになりそうです

 

胸は生まれ持ったものだけど お尻は努力で変えられるという名言に心支えられ。。笑

 

顔は荒治療でしか変えられないけど

体って毎日の生活がつくるものだから その人らしさが出るな、と思った次第

 

なぜあんなに無いものばかりを見つめていたのだろうと 不思議に思う

いつでも愛は 寛容だねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境目

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眠れない夜の割合がまた、増えてきている。

窓の外は静かで、鈴虫の音だけが聞こえる。

 

体と頭のバランスは すごく大事で

ちょっと油断すると すぐ意識が上の方に登ってきて

頭は忙しくあれこれ考えてるのに

身体感覚はゼロ もしくは 空腹とか そういうわかりやすいものしか 認識できなくなる。

 

大量の情報だけ食べて 時には本当に食べてる時にすら 意識はスマートフォンの中で

これは 本当に 頭の中を侵食する 

絶えず食べていないと 死んでしまうわけでもないのに 空白に耐えられない私がたまにいる

 

本当は

1秒1秒 呼吸をすることで生きていて

絶え間なく心臓が動いていて

血液も循環していて

そのおかげである今じゃなく

どこか違う方向ばかり見てるからおかしなことになることばかり

 

呼吸だけを見つめて

ようやく10分経って 重心が真ん中に戻る

 

無意識と意識

人間とヒト

生きることと生かされること

自然の脅威と人間の知恵

 

生きてるだけでいろんなことが起こる。

大切な人としばしのお別れや

ITが発達していなかったら知ることもなかった遠い北海道の事情

わたしの部屋に迷い込んできてしまった蝿の羽音

 

夜中と夜明けの境目はどこだろう

見上げた空は同じで繋がってるなんて

どこの誰かそんなロマンティックなことを考え始めたのだろう

 

明日は いつか 住んでいた世田谷に

懐かしい気持ちになるんだろうか

目的など どこにもいらないから

ただ 今だけを生きたい